聖書箇所:ヨハネの黙示録 3章全体(サルデス、フィラデルフィア、ラオデキアへの手紙)

序論:主の診断は続く
愛する兄弟姉妹、先週、私たちは黙示録2章から4つの教会を通して主の御声を聞きました。今日は残り3つの教会サルデス、フィラデルフィア、ラオディキアの教会です。 これらの言葉は1世紀の教会に語られましたが、今日の私たちにも生きた言葉として響いてきます。
黙示録2-3章の七つの教会への手紙には、共通した構造があります。それぞれに、
- キリストの自己紹介、「わたしはあなたの行いを知っている」
- 教会の状態の分析、
- 叱責または称賛、
- 悔い改めへの招き、
- そして「勝利を得る者」への約束が含まれています。
- 「御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」
この3章には、非常に衝撃的な対比があります。
「生きていると言うが、実は死んでいる教会」と、
「力は少ししかないが、門が開かれている教会」。 そして、
「金持ちだと言うが、実は惨めな教会」と、
「戸の外でノックしておられるイエス様」。
見せかけの信仰ではなく、真実の命に生きるために、主の厳しくも愛に満ちた言葉を聞きましょう。
サルデス教会 ― 評判と実態の乖離(1-6節)

サルデスはテアテラの南東約50km、スミルナの東方約80kmの位置にあります。かつてリディア王国の首都として栄えた難攻不落の都市でした。 教会もまた、外側から見れば立派で、活動的で、「あの教会は生き生きしている!」という評判(名)を持っていました。
「生きている」という評判、「死んでいる」という実態
しかし、燃える目を持つ主は言われます。「あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」(3:1)。
これは「形骸化した信仰(Nominal Christianity)」への警告です。 礼拝のプログラムは洗練され、会堂は立派で、歴史もある。
しかし、そこに「聖霊のいのち」がない。過去の遺産だけで食いつないでいる状態です。
博物館の蝋人形は、遠くから見れば生きているように見えますが、近づけば呼吸していないことがわかります。
私たちの信仰は「蝋人形」になっていないでしょうか?

目を覚ませ
サルデスの町は歴史上、BC6世紀中頃とBC3世紀終盤の二度だけ、敵に攻め落とされました。
その原因はどちらも「油断」でした。「ここから敵は来ないだろう」と見張りを怠った隙に、崖を登ってきた敵に滅ぼされたのです。
主は言われます。「目を覚ましなさい」(3:2)。 「自分は大丈夫だ」と思っている時が一番危険です。
今日、聖霊の息吹を求めて祈りましょう。
フィラデルフィア教会 ― 小さな群れの大きな祝福(7-13節)

フィラデルフィアはサルデスの南東約45kmの位置にあります。ペルガモンの王アッタロス2世フィラデルフォスが建てたので、その名称が付けられた。
キリストの権威(7節)
「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持っている方」という自己紹介は、イザヤ22章22節を背景としています。
キリストは神の国への扉を開閉する絶対的権威を持っておられます。
力は少ししかないが

ここには叱責の言葉がありません。フィラデルフィア教会は、人間的に見れば「少しばかりの力」(3:8)しかありませんでした。
人数も少なく、社会的地位もなく、影響力も乏しい。しかし、主は彼らを絶賛されます。
なぜなら、彼らは「主の御言葉を守り、主の名を否まなかった」からです。
神様の評価基準は「大きさ(サイズ)」ではなく「忠実さ(フェイス)」です。
「私には才能がない」「私たちの教会は小さい」と嘆いてはいけません。主はその小さな群れを愛しておられます。
開かれた門
主は、ダビデの鍵を持つ方として、彼らの前に「だれも閉じることのできない門」を開いたと約束されます。
忠実な者には、必ず宣教の道が開かれます。天国の門が開かれます。
どんなに反対があっても、主が開かれたドアを、人間や悪魔が閉じることはできません。
私たちはこの約束に立つことで、恐れずに歩むことが出来きます。

迫害における神の約束(9-11節)
「サタンの会衆に属する者」と呼ばれる自称ユダヤ人たちは、主イエスを拒む現代のユダヤ人をも含みます。彼らは、異邦人が彼らの前にひれ伏すというイザヤ書60章14節の預言を待ち望んでいます。
しかし、主は「彼らをあなたの足元に来させ、ひれ伏させることで、わたしがあなたを愛していることを示す」と宣言されます。
「すぐに来る」という言葉は、主の再臨が差し迫っていることを強調しています。
「あなたの冠を誰にも奪われないように」という警告は、私たちが最後まで信仰を守り続ける必要性を示しています。
揺るぎない永遠の約束(12-13節)
勝利を得る者への約束は驚くべきものです。彼らは神の神殿の柱とされ、そこから永遠に離れることはありません。
これは、神との絶え間ない交わりと、揺るぎない安定性の保証です。
さらに、三つの名が刻まれます。
「わたしの神の名」
「神の都の名」
「わたしの新しい名」。
これらは、神の民としての完全な帰属と、揺るぎないアイデンティティを象徴しています。
ラオデキア教会 ― ぬるま湯の悲劇 (14-22節)

最後に、最も厳しい言葉を投げかけられたラオデキア教会です。
ラオデキアは、コロサイの西方約20kmに位置する最も近い町でした。
この地理的近さから、パウロの『コロサイ人への手紙』がラオデキア教会でも朗読されたことが記録されています(コロサイ4章16節)。
さらに、エパフラスがラオデキア教会のために献身的に働いた様子が同4章13節からうかがえます。
この町は金融の中心地として栄え、特に黒い羊毛を用いた高級毛織物の産地として有名でした。
また、眼科用の目薬の製造・輸出で知られており、この地域の産業的特徴は、キリストがラオデキア教会に語られた言葉(黙示録3章18節)の背景として深く関連しています。
なぜ「なまぬるい」のか

ラオデキアは、近くのヒエラポリスからの「熱い温泉水」と、コロサイからの「冷たい湧き水」が合流する地点でした。
水が届く頃には、ちょうど不味い「ぬるま湯」になっていたのです。 熱い湯は癒やしになり、冷たい水は渇きを癒やします。
しかし、ぬるま湯は役に立たず、人を吐き気(3:16)させます。
主が嫌われるのは「どっちつかず」の態度です。 世の中の楽しみも欲しい、天国の保証も欲しい。片足は世に、片足は教会に。
そのような中途半端な態度は、主にとって「吐き出したい」ほどの嫌悪感を与えます。
裸の王様
彼らは言いました。「私は金持ちだ。不足なものは何もない」。 しかし主は言われます。「あなたは、自分が惨めで、哀れで、貧しく、盲目で、裸であることを知らない」(3:17)。 霊的な自己満足ほど恐ろしいものはありません。主は解決策として、ご自分から「火で精錬された金(試練を経た信仰)」「白い衣(義)」「目薬(霊的洞察力)」を買うように勧めます。
主はどこにおられるか

黙示録3章20節は、伝道集会でよく使われる有名な言葉です。 「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている」。
しかし、文脈を見てください。これは未信者への言葉ではありません。「教会」への言葉です。
なんと恐ろしい光景でしょうか。教会の主であるイエス様が、教会の「外」に締め出されているのです。
教会の中で、賛美があり、説教があり、活動がある。しかし、その中心にイエス様がいない。
主は無理やりドアをこじ開けたりなさいません。ただノックし、私たちが内側から開けるのを待っておられます。
まとめ:共に食事をしよう

ラオデキアへの約束は、悔い改めて戸を開けるなら「わたしは彼と食卓を共にする」(3:20)というものでした。 食事とは、親密な交わりの象徴です。
主は、サルデスのように形骸化することを望まれません。 ラオデキアのように、自己満足でぬるま湯になることを望まれません。 フィラデルフィアのように、小さくても、主の言葉に忠実であり、戸を開け続けることを望んでおられます。
今日、あなたの心のドアをノックする音が聞こえますか? 「忙しいから後にしてくれ」と言わず、今、そのドアを開けましょう。 主イエスを、あなたの人生の中心、教会の中心にお迎えしましょう。
お祈り
「愛する主イエス様。あなたは今、戸の外でノックしておられます。私たちは『自分は生きている、富んでいる』と思い上がっていなかったでしょうか。どうか私たちの霊的な目を覚ましてください。私たちの心の扉を開きます。どうぞ入ってきてくださり、私たちと共に食事をし、生きた交わりを回復させてください。フィラデルフィア教会のように、最後まで御言葉を守り抜く力を与えてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

「イエス・キリストを自分の救い主として信じます」と告白したい方は、
黒部カリスアガペー教会のHPへ書き込むか、電話をして来てください。
年齢は関係ありません。
若い方も、人生の後半の方も、神様の招きに年齢制限はありません。
「でも、自分は罪深すぎる」と思っている方、
まさにあなたのためにキリストは来られたのです。
「でも、まだ準備ができていない」と思う方、
完璧になってから来る必要はありません。
あなたのそのままで来てください。
今日が、あなたの人生の転換点となるかもしれません。
神様は、今、あなたを招いておられます。
どうぞ、告白してください。
教会HP https://king-lord.org/contact/


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