黙示録9章解説:底知れぬ淵から来る「いなご」とは何か?【中高年のための聖書メッセージ】

ヨハネの黙示録シリーズ

礼拝メッセNo.26_03月01日:ヨハネの黙示録9章

黙示録9章解説:心の闇と希望

人生の酸いも甘いも噛み分けてきた45歳以上の男女にとって、世界情勢や自分自身の老いは、時として「底なしの穴」のような不安を突きつけます。聖書の最後の一書、黙示録9章が描く壮絶な幻の裏側には、実は私たちを救い出そうとする「愛の警告」が隠されています。

自然災害から「魂の苦しみ」へ(8章から9章へ)

前回の第8章では、立山連峰を震わせるようなラッパの響きと共に、自然界が次々と打たれる様を見ました。それは「世界は永遠ではない」という、 いわば外側からの警告でした。しかし、今日読む第9章で、舞台は「天」から「地下」、すなわち私たちの「心の深淵」へと移ります。

 8章の終わりで鷲が叫んだ「わざわいだ、わざわいだ、わざわいだ」という三つの災いのうち、今日はその二つが現実となります。ここで舞台は一転します。

「天から地上へ」降る災害ではなく、「地下=底知れぬ所」から湧き上がる災いへと変わるのです。自然災害や戦争というより、「悪霊的な力」が前面に出てきて、人間の内側・社会の内面を食い荒らすような裁きとして描かれています。

黒部・魚津・入善あたりで人生の「午後の時間」を歩まれている皆さま。仕事の責任、家族の悩み、そして忍び寄る老い。そうした現実の中で、ふと足元に「底知れぬ穴」が開いているような不安を感じることはないでしょうか。今日の箇所は、まさにその「魂の空洞」に鋭く迫るメッセージです。どうかこれを、遠い昔の怪物や神話の話としてではなく、私たちの魂の現実として、耳を傾けていただきたいと思います。【黙示録とは何か――まず地図を広げましょう】

本題に入る前に、少し整理しましょう。黙示録は、西暦90年代、ローマ帝国の激しいキリスト教迫害の時代に書かれました。著者ヨハネは、エーゲ海のパトモス島に 流刑されていた老使徒です。彼が見た「幻」を書き記したもの、それが黙示録です。ただし注意が必要です。これは「未来予言の暗号書」ではありません。これは、苦しむ人々への励ましの手紙です。「どんなに時代が暗くとも、歴史は神の手の中にある」という力強い宣言です。9章に登場する「ラッパ」は、神の審判が段階的に展開する様子を象徴しています。今日はその5番目と6番目のラッパの幻を見ていきます。その警告がいよいよ私たちの「内面」と「社会」へと踏み込ん でくる、非常に緊密な場面です。人生の酸いも甘いも知り尽くしてこられた方々だからこそ、この象徴的な描写の裏にある「人間心理」を感じ取っていただけるはずです。

【本文区分と説教の構成】第一部 第五のラッパ:底知れぬ所からのいなご(1–12節)第二部 第六のラッパ:ユーフラテス川と二億の騎兵(13–19節)第三部(適用)人間の悲劇:それでも悔い改めない心(20-21節)

第五のラッパ:底知れぬ所からのいなご

底知れぬ淵(アビュッソス)が開くとき

「星」は聖書においてしばしば霊的存在(天使、または堕天使)の象徴として用いられます(イザヤ14:12、ルカ10:18参照)。ここでは「落ちた星」、すなわち悪の霊的存在が「底なしの穴(アビュッソス)」を開く鍵を与えられます。

重要なのは、その鍵は勝手に奪ったものではなく「与えられた」ということです。どんなに恐ろしい悪であっても、神の許可なしには指一本動かせない。これが聖書の一貫したメッセージです。「底なしの穴」から煙が上がり、太陽と空気が暗くなります。これは霊的闇が世界を覆う様子の象徴的描写です。

現代人が抱える「死にたいのに死ねない」虚無感

その煙の中から「いなご」のような群れが出てきます。このいなごは、出エジプト記に出て来るいなごとは全く異なります。この「いなご」には特徴があります。・第一に、「草や木(自然)」は損なわず、「神の印を額に持っていない人間だけ」を精神的に襲うこと。・」第二に、「殺すことはせず、五か月の間苦しめる」こと。・第三に、人々はあまりの苦しみに「死にたいと願うが、死が逃げていく」こと。その苦しみは「さそりに刺された」ようだと表現されます。現代を生きる私たちの心に突き刺さる言葉でないでしょうか。「人々は死を求めるが、死は逃げて行く。」これは絶望の極致の描写です。肉体の痛みよりも辛いのは、生きる意味を失い、出口も見えない、死にたいのに死ねないという「魂の空虚」です。

日本でも、多くの人が「生きている意味がわからない」と言いながら、空しい日々を過ごしています。「底知れぬ穴(アビュッソス)αβυσσου」とは、神から切り離された心の空洞そのものです。人は何かでその穴を埋めようとします。仕事、お金、娯楽、お酒、あるいは人間関係。しかし、その穴に底がありません。注ぎ込めば注ぎ込むほど、渇きは深くなっていく。ヨハネが見たのは、そのような虚無の煙でした。

破壊者アバドン

いなごの姿は、戦いに備えた馬、人間のような顔、金の冠、女の髪、獅子の歯、鉄の胸当て、雷鳴のような羽音と、おぞましいイメージで描かれます。これは、悪の力がどれほど魅力的でありながら、同時に破壊的で恐ろしいかを象徴的に表しています。11節「彼らの上には王として、底なしの穴の使いがいた。ヘブル語でアバドン αβαδδων 、ギリシア語でアポリュオン απολλυων という名前である。」「アバドン」は「滅び」、「アポリュオン」は「滅ぼす者」という意味です。この勢力の本質は「破壊」です。悪の支配の最終目的は「人を生かすこと」ではなく、「滅ぼすこと」です。

人生には「底知れぬ淵」のような瞬間があります。バブル崩壊、リーマンショック、コロナ。あるいは家族の病気、職場の人間関係の崩壊、自分の老いへの恐怖。目に見えない何かに人生をかき乱される感覚、それはいつの時代も、どの国の人間も経験することです。

初めてこの箇所を読む方には、SF映画のような話に聞こえるかもしれません。しかし、これは私たちが直面する心理的・霊的な真実を映し出す鏡なのです。

第六のラッパ:それでも手放せない「偶像」(13–19節)

第六のラッパが吹かれると、ユーフラテス川のほとりに縛られていた四人の御使いが解き放たれます。現れた二億の騎兵隊が地を覆います。彼らは口から火と煙と硫黄を吐き、人類の3分の1を滅ぼします。

歴史上、ユーフラテス川はイスラエルにとって、東方の脅威の象徴的な境界線でした(かつてアッシリア、バビロン、パルティアがここから攻めてきた)。「縛られていた」というのは重要な表現です。これらの破壊的な力でさえ、神によって「縛られて」おり、「定められた時」まで、神の許しがなければ動けないということです。

世界がどれほど混沌として見えても、最後の手綱は神が握っておられます。

苦しみだけでは人は変わらないという現実(20-21節)】

この章の結論は、目を覆いたくなるほど残酷です。 これほどの災いを受けても、生き残った人々は「自分の手で造ったもの(偶像)」を拝むのをやめず、悔い改めようとしませんでした。人間は自分のこだわり、プライド、目に見える偶像(お金や地位、自分の正義)を捨てられません。

それらが自分を救ってくれないと分かっていても、なお、それらにしがみついてしまう。人は年齢を重ねるほど、自分の生き方を否定するのが難しくなります。聖書が言う「悔い改め(メタノイア)」とは、自分を責めることではありません。

「もう自分の力では無理です」と認め、「歩む方向を、光の方へ向き直ること」という、前向きな方向転換のことなのです。

結論:あなたを守る「神の印」を持つ生き方

なぜ、慈愛に満ちたはずの神は、このような恐ろしい幻を見せられるのでしょうか。それは、私たちを怖がらせるためではありません。

「その道(偶像礼拝)の先には破滅しかない」という事実を、手遅れになる前に知らせるためです。皆さん、私たちは何に頼って生きていくべきでしょうか。第9章の暗闇の中で、唯一希望の光となっているのは、4節にあった「神の印」を持つ人々です。彼らだけは、底知れぬ穴からの煙の中でも、魂を害されることはありませんでした。

この「印」とは、目に見える記号ではありません。(印は7章3節)「私は神に造られ、愛されている」「イエス・キリストによって罪を赦されている」という、魂の安心感のことです。これこそが、サソリの毒(虚無感や絶望)に対する唯一の解毒剤なのです。

この確信がある人は、たとえ社会が揺らぎ、人生の底が抜けるような事態になっても、決して壊されることはありません。宇奈月の温泉が冷えた体を温めるように、

聖書の言葉は、この混沌とした世界で冷え切った私たちの心を温め、再生させる力があります。 どうか、頑なな心を少しだけ緩めて、この「希望の門」を叩いてみてください。

この「恐ろしい予言」の続きには、必ず「希望」が待っています。皆さんが、その希望の門を叩かれることを心より願っております。

お祈りします。「深い淵の底にも光を届かせる神様。今日ここに集われたお一人お一人の、人生の重荷と不安をあなたがご存知です。どうぞ、私たちが頑なさという殻を破り、あなたという真実の避難所に逃げ込むことができますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン」


このように9章の終わりで人々が悔い改めなかった、という暗い結末で終わります。しかし10章では「小さな巻き物」を持つ力強い天使が現れ、神の奥義が成就することが告げられます。「それでも神の計画は止まらない」という希望へと続きます。

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