愛する兄弟姉妹の皆さん、ルカはイエス・キリストの誕生物語を、当時の世界の支配者、皇帝アウグストゥスの名前から始めています。彼は当時のローマ帝国の頂点に立つ人物でした。彼の一声で、帝国中の人々が移動を強いられました。
しかし、ルカが本当に伝えたいのは、この権力者の物語ではありません。歴史の表舞台で権力者たちが動いている間に、その舞台裏で、神の救いの物語が静かに始まっていたのです。
今日、私たちはこの対比に注目しながら、神がどのような方なのかを学びたいと思います。
聖書を読みます。耳を開いて、心を開いてください。
[ルカ2:1-20を朗読]

YouTube動画はコチラから【ルカ2章完全解説】
第一部:皇帝の野望と、神の摂理(1-7節)
皇帝アウグストゥス(歴史の舞台裏)
クリスマスの物語は、当時の世界支配者、皇帝アウグストゥスの勅令から始まります。
「アウグストゥス」とは「尊厳者」という意味です。彼はローマ帝国の初代皇帝として、「私が世界を支配している」「歴史を動かしているのは私だ」と信じて疑いませんでした。彼の一声によって、ローマ帝国支配下の人々が移動を強いられました。
ヨセフとマリアもその中に居て、ナザレの町に住む貧しい夫婦でした。
ナザレからベツレヘムまでは約150キロメートル。現代でも大変な旅路ですが、2000年前、しかも臨月の身体を抱えたマリアにとっては、まさに母子ともに命がけの旅でした。
しかし、皇帝は知らなかったのです。自分のその傲慢な命令が、実は700年も前の預言を成就させるために用いられていることを。
預言者ミカは言いました。「ベツレヘム・エフラタよ……あなたから、わたしのためにイスラエルを治める者が出る」(ミカ書5章2節)。
普通なら、ナザレに住む彼らの子はナザレで生まれるはずでした。しかし神は、皇帝の権力さえも道具として用い、ヨセフとマリアを約束の地ベツレヘムへと導かれたのです。
アウグストゥスが「自分が世界の王だ」と思っていたその瞬間、人間の計画をはるかに超えたところで、本物の王が生まれようとしていました。これが神の摂理です。
ベツレヘムに宿屋に場所がなかった3つの意味
神の計画によってベツレヘムに到着したヨセフとマリアですが、そこで待っていたのは残酷な現実でした。7節「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と聖書は短く、しかし重く語ります。
この「場所がなかった」という言葉には、三つの深い意味が込められています。
- ① 物理的な「場所がない」
町は住民登録の人々であふれかえっていました。ヨセフは必死にドアを叩いたでしょう。「妻が産まれそうなんです」と懇願したでしょう。しかし、返ってくる言葉は「満室だ」「場所はない」という冷たい拒絶だけでした。 - ② 社会的な「場所がない」
もし彼らが金持ちや権力者であれば、誰かが部屋を譲ったかもしれません。しかし、彼らは無名の貧しい夫婦でした。社会は彼らに注目せず、誰も席を譲りませんでした。彼らは見えない存在として扱われ、家畜小屋へと追いやられたのです。 - ③ 霊的な「場所がない」
そしてこれは、イエス・キリストの生涯を象徴する預言的な出来事でした。
「この方は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1章11節)。
誕生の時に宿屋に場所がなく、生涯を通して「枕するところもなく(ルカ9章58節)」、最後は城壁の外で十字架につけられました(ルカ23章33節)。この世界は、創造主のために場所を用意しなかったのです。
神の逆説:なぜ飼い葉桶なのか?

しかし、ここに神の驚くべき逆説があります。
神はどこで御子を生まれさせたでしょうか?
それは、王宮ではなく、家畜小屋です。
また、 金の揺りかごではなく、飼い葉桶(餌箱)です。
さらに、 王の衣ではなく、粗末な布にくるんででした。
これは偶然ではありません。神の意図的なメッセージです。
イエス・キリストは、排除された者、疎外された者の痛みを知っておられます。なぜなら、ご自身が徹底的に「場所がない」状況の中に生まれてくださったからです。
・現代の私たちへ
このメッセージは、今を生きる私たちに二つのことを語りかけます。
- 第一に、「居場所がない」と感じているあなたへ。
職場で、家庭で、社会で、自分の居場所がないと感じている方はいませんか?
経済的な理由、年齢、病気、あるいは見えない疎外感によって孤独の中にいるなら、思い出してください。神の子イエスは、あなたのその痛みをご存知です。神の救いは、王宮ではなく、最も低く、場所がないと感じている人のもとにこそ届くのです。 - 第二に、「忙しすぎる」私たちへ。
今朝、私たち自身の心も問われています。「あなたの人生に、イエスのための場所がありますか?」
私たちの心は当時の「宿屋」のように満室ではないでしょうか。仕事、趣味、SNS、お金、将来の不安……様々なもので埋め尽くされ、イエスが来られても「すみません、満室です」と断ってはいないでしょうか。
しかし、イエスはあきらめません。
“「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」(黙示録3章20節)”
もし豪華な客間が空いていなくても、イエスは汚れた馬小屋のような場所であっても、喜んで入ってきてくださいます。
アウグストゥスのような権力ではなく、飼い葉桶の無力さご自身の愛を示された方。
この方を、今日、私たちの心の「空いている場所」にお迎えしましょう。
第二部:羊飼いたちへの告知と「恐れるな」(8-20節)
なぜ羊飼いだったのか(8節)
神の救いの計画は、常に私たちの予想を裏切る形で始まります。
天使が最初に現れたのは、誰のところだったでしょうか。エルサレムの王宮にいる権力者でしょうか。神殿にいる祭司たちでしょうか。いいえ、暗い野原で野宿をしながら羊の番をしていた、名もなき羊飼いたちのところでした。
当時、羊飼いは社会の底辺に位置する人々でした。
彼らの仕事は不規則で汚れやすく、宗教的な「きよめ」や安息日を厳格に守ることができませんでした。また、当時のユダヤ教の法律書(タルムード)では、彼らの証言は法廷で認められず、「盗品を扱うかもしれない罪人」として見下されることさえありました。
つまり、誰も彼らの言葉を信じない、社会的に最も信頼されていない人々でした。
しかし、神はあえて彼らを選ばれました。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という、人類史上最大のニュース、最初の福音宣教は、この最も小さくされた者たちに向けられたのです。
天使の宣言:恐れから喜びへ
天使が光と共に現れたとき、羊飼いたちは9節「非常に恐れた」とあります。これは当然の反応です。彼らは日頃から社会に疎外され、神の祝福からも遠いと感じていたかもしれません。
しかし、天使は言いました。
10節”「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」”
この短い宣言の中に、福音(良い知らせ)のすべてが詰まっています。
- 「恐れるな」: 神は、私たちが恐れの中で生きることを望んでおられません。神の光は、恐れを取り除くために来ました。
- 「大きな喜び」: 福音とは、義務や裁きではなく、圧倒的な「喜び」の知らせです。
- 「民全体に」: これは特権階級だけの秘密ではありません。すべての人、もちろん羊飼いのような人々にも開かれたものです。
11節
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
- 「今日、あなたがたのために」: 遠い未来の話ではありません。今、そして個人的に「あなたのため」に、救い主(キリスト)が来られたのです。
この宣言に続いて、天の大軍が加わり、賛美が巻き起こりました。
14節”「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。”
これは天と地の出会いであり、神への栄光(垂直)と、人間への平和(水平)が一つになった瞬間でした。

しるし:飼い葉桶の逆説
天使は羊飼いたちに不思議な「しるし」を与えます。
12節”「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」”
王の誕生であれば、宮殿や豪華な寝台が「しるし」であるはずです。しかし、神は家畜の餌箱である「飼い葉桶」を救い主のしるしとされました。
これは神の逆説です。
神は、力によってではなく弱さによって、威厳によってではなくへりくだりによって、私たちを救おうとされたのです。
羊飼いたちの信仰の応答:「さあ、行こう」
羊飼いたちはどう反応したでしょうか。「まさか」「朝になったら行こう」とは言いませんでした。彼らは直ちに「さあ、ベツレヘムへ行こう」と決断し、「急いで」行きました。
15-16節、彼らの行動は、信仰の三つのステップを示しています。
① 信じた(「主が知らせてくださった」)
② 行動した(「急いで行って」)
③ 見つけた(「探し当てた」)
17-18節、そして彼らは、自分たちが見聞きしたことを人々に知らせました。社会で最も信頼されていなかった羊飼いたちが、世界で最初の「伝道者」となったのです。
これこそ、”「神は知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選ばれた」(コリント人への手紙第一 1章27節)”という御言葉の成就です。
マリアの信仰:神の言葉(レーマ)を思い巡らす
マリアの黙想と羊飼いの賛美(19節)
一方で、母マリアは対照的な反応を見せます。
”「しかし、マリアはこれらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた」”
羊飼いたちが興奮して走り回っている間、マリアは静かに黙想していました。
マリアは知っていました:
ガブリエルの訪問(ルカ1:26-38)
エリサベツの預言(ルカ1:42-45)
シメオンの預言(ルカ2:34-35)「剣があなたの心を刺し貫く」
彼女は喜びと共に、不安も感じていたでしょう。この子の運命を。
「これらのことをすべて心に納めて、思い巡らす」
これを原典で解き明かします。予備知識として、新訳聖書で「ことば」は、ギリシャ語で「λόγος(ロゴス)」と「ῥῆμα(レーマ)」が使われています。
ロゴス=客観的・普遍的真理(神の計画の全体像)。
レーマ=主観的・個別的適用(信仰者への具体的なメッセージ)。
ルカは「レーマ」と「ロゴス」を場面に応じて使い分けています。
「レーマ」を使う場面:神の直接的な介入(例:受胎告知・羊飼いの報告)。
「ロゴス」を使う場面:教えや宣教(例:8:11「種は神の言葉(ロゴス)である」、11:28)。
「ῥῆμα(レーマ)」の基本的な意味
「語られた言葉」「出来事」「宣言」を指すギリシャ語で、単なる情報ではなく、「力ある神の言葉」や「成就すべき約束」を含意することが多い。
旧約のヘブライ語「ダーバール」(דָּבָר)に相当し、神の介入的なメッセージを強調します(例:”詩篇33:6「主の言葉(レーマ)によって天は造られた」”)。
ルカ福音書の意図
ルカは「レーマ」を繰り返し用いることで、
マリアが神の約束を信じ続けた信仰(1:38)受胎告知と、
その約束が現実となったことを黙想する姿勢(2:19)ベツレヘムの夜
を対比的に描き、「受肉の出来事全体が神の計画通りであった」ことを強調しています。
【あなたのお言葉通りこの身になりますように】ルカ1章38節
「マリアが受け取った『レーマ』とは?」
マリアは天使の「レーマ(神のことば)」を受け入れました。
マリアは羊飼いたちが語った「レーマ(出来事についてのことば)」を心に納めた
と、この様にマリアは最初に神のレーマを信仰で受け入れ、その後もそのレーマが実現していく過程を「思い巡らし」(ギリシャ語原文:スムバッルーサ συμβάλλουσα)続けたのです。
これはルカによる意図的な文学的つながりで、マリアの信仰の旅を描いています。

証し:個人的なレーマの体験(第一コリント6:19-20)
実は、私もレーマ(神の言葉)を与えられ、受け取った経験者です。今でも鮮明に覚えています。2004年4月4日、デボーション(聖書通読)の時のことでした。その年の3月にイスラエルとヨルダンの聖地旅行から帰った直後のことです。
第一コリント6章を読んでいた時、その御言葉が聖書から浮かび上がり、飛び出してくるように感じたのです。
”『あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。』(第一コリント6:19-20)”
この体験後、私は神学校に入り直し、牧師・宣教師としての道へと導かれ、現在に至っています。
では、本題に戻ります。
羊飼いたちは、元の野原へ帰って行きました。
状況は変わっていないかもしれません。同じ仕事、同じ貧しさの中に戻ったかもしれません。
しかし、彼らは20節「神をあがめ、賛美しながら」帰って行きました。彼らの心は、もはや以前と同じではありませんでした。彼らは救い主を見たのです。
私たちもまた、このクリスマスの礼拝から、それぞれの生活の場へと帰っていきます。
しかし、私たちも羊飼いたちのように、インマヌエル「神が共におられる」という喜びと賛美を携えて、それぞれの場所へ遣わされていきましょう。
私たちへの招き:あなたの心の「空いている場所」にイエスを
あなたにも場所がある
もし、あなたが「自分には場所がない」と感じているなら、覚えてください。イエス・キリストご自身も、この世に場所がありませんでした。しかし、まさにそのために、あなたのような人のために、キリストは来てくださったのです。
なぜ神は、御子を飼い葉桶に寝かせたのでしょうか。これは意図的な選択です。神は金の揺りかごを準備できました。天使たちに王宮を建てさせることもできました。しかし、神は飼い葉桶を選ばれました。
・イザヤ53章1-3節にあるように、メシアは最初から、苦難の僕として来られました。”「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ…」”
・パウロはピリピ書2章6-8節で、これを神学的に説明します。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(ピリピ書2章6-8節)
・ヨハネによる福音書1章14節は、キリスト教信仰の核心である「受肉(じゅにく)」を宣言する、聖書の中で最も重要な一節の一つです。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネによる福音書1章14節)
これは、神の愛の最高の表現です。
神は遠くにいて命令を下す方ではなく、私たちのただ中に降りてこられ、
私たちの喜びと苦しみを分かち合い、最終的には命を捨てて、
私たちを救ってくださった方なのです。
ここにある「恵み」とはギリシャ語ではカリス(χάρις / charis)です。その意味は「受けるに値しない者への一方的な好意」「神の無償の贈与」です。私たちは何も資格がないのに、キリストという賜物を受けたのです。

黒部カリス・アガペー教会の名前の由来と祝福
さて、私たちの教会名は「黒部カリス・アガペー教会」です。ここで「黒部カリス・アガペー教会」の名称に込めた意味をお証しします。
「カリス(恵み)」と「アガペー(無条件の愛)」という、神さまの本質を表す二つのギリシャ語を名称に選びました。
先ほど見たように、カリス(χάρις)は「受けるに値しない者への神の一方的な恵み」を意味します。
アガペー(ἀγάπη)は「無条件の愛」「意志的な献身的愛」を意味し、神さまご自身の愛の性質を表します。
「カリス・アガペー教会」この名前に、
「神の恵み(カリス)によって救われた者」としてのアイデンンティティ、
「神の愛(アガペー)に応答し、互いに愛し合う群れ」としての使命、を表現しています。
神の恵み(カリス)と愛(アガペー)に根ざし、黒部市の地で福音を証しするキリスト教会として、聖霊によって建て上げられました。
以上が、黒部カリス・アガペー教会の名前の由来でした
では、本題に戻ります。
もし、イエスが王宮で生まれていたら、門番がいて、衛兵がいて、誰でも入れるわけではなかったでしょう。しかし、馬小屋なら、誰でも入れます。羊飼いでも、貧しい者でも、罪人でも。イエスは最初から、すべての人に開かれていました。イエスは遠い神ではありません。イエスはインマヌエル( עמנואל 神は我々と共におられる、イザヤ7:14)(.εμμανουηλ マタイ1:23)「神が私たちとともにおられる」と言う意味です。
もし、あなたが「自分は小さすぎる、弱すぎる、神に用いられるはずがない」と思っているなら、羊飼いたちを思い出してください。神は、社会が無視する者を選び、用いられる方です。
飼い葉桶に来る勇気
羊飼いたちは、「さあ、行こう」と言いました。彼らは、自分たちの仕事を一時的に放棄し、リスクを冒して、ベツレヘムに向かいました。
私たちも、イエス・キリストのもとに行く決断が必要です。それは、自分の人生の優先順位を変えることかもしれません。自分のプライドや恐れを手放すことかもしれません。
飼い葉桶は、宮殿ではありません。豪華でも、印象的でもありません。しかし、そこに救い主がおられます。私たちは、見栄えや体裁ではなく、真実を求める勇気が必要です。
そして、飼い葉桶はもう一つのものを指し示しています。十字架です。飼い葉桶も十字架も木でできていました。飼い葉桶にイエスは横たえられ、十字架にもイエスは横たえられました。飼い葉桶は家畜の餌を入れる場所ですが、イエスは「命のパン」となられました(ヨハネ6:35,48)。
マタイ1章21節は言います。”「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」”
イエスという名前は「主は救い」という意味
イエスキリストが来られた目的は:
ただ生まれるためでも、
教えるためでもなく、死ぬためです。
そして、
よみがえるためです。
クリスマスは、イースターへの序章なのです。
今朝、戸を開けてください。黙示録3章20節は言います。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)
心の宿屋に、イエスのための部屋を作ってください。
クリスマスの喜びを運ぶ者となる
羊飼いたちは、見たことを人々に知らせました。彼らは、自分たちが経験した喜びを分かち合わずにはいられませんでした。
クリスマスの喜びは、独り占めするものではありません。それは、分かち合うべきものです。あなたの周りに、「場所がない」と感じている人はいませんか。孤独を抱えている人、疎外されている人、希望を失っている人はいませんか。
私たちは、その人々に、「あなたのために救い主が生まれた」という喜びの知らせを運ぶ者となることができます。言葉だけでなく、行動によって。受け入れることによって。共にいることによって。
結び:インマヌエル(神は我々と共におられる)
愛する皆さん、YouTubeで参加された方々、
世界は今も、権力と富を持つ者たちが表舞台を占めています。しかし、神の目は、小さな者たちに注がれています。
2000年前、神は家畜小屋で生まれることを選ばれました。羊飼いたちに最初に告げることを選ばれました。今日も、神は同じ方です。神は、小さな者、弱い者、場所のない者と共におられます。
ヘブル人への手紙4章15-16節は言います。
「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
イエスは遠い神ではありません。イエスはインマヌエル(神は我々と共におられる)です。
(イザヤ書7章14節 עמנואל ヘブル語、マタイ1章23節 εμμανουηλ ギリシャ語)
このクリスマス、あなたは神の招きに応答しますか。「さあ、ベツレヘムへ行こう」と言った羊飼いたちのように、あなたもイエス・キリストのもとに行きませんか。そして、あなた自身が経験する喜びを、他の人々と分かち合いませんか。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」
この言葉を、もう一度、心に刻みましょう。これは、あなたのための知らせです。
祝福
最後に、祝福の祈りを捧げます。
民数記6章24-26節:
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
アーメン。
もし今日、「イエス・キリストを自分の救い主として信じます」と告白したい方は、
黒部カリスアガペー教会のHPへ書き込むか、電話をして来てください。
年齢は関係ありません。
若い方も、人生の後半の方も、神様の招きに年齢制限はありません。
「でも、自分は罪深すぎる」と思っている方、
まさにあなたのためにキリストは来られたのです。
「でも、まだ準備ができていない」と思う方、
完璧になってから来る必要はありません。
あなたのそのままで来てください。
今日が、あなたの人生の転換点となるかもしれません。
神様は、今、あなたを招いておられます。
どうぞ、告白してください。
教会HP https://king-lord.org/contact/



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