【ヨハネの黙示録1章】恐れるな|歴史の中心に立つキリスト(聖書解説)

信仰と生活

今日から私たちは「ヨハネの黙示録」をご一緒に学んでいきます。
「黙示録」と聞くと、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか?
なんだかおどろおどろしい、「恐ろしい災害が起こる予言書」とか、
「不気味な獣が出てくる難解な本」というイメージがあって、
正直、少し身構えてしまう方も多いと思います。
でも、実はこの黙示録は、恐怖を与えるための書ではありません。
むしろこれは、苦しみの中にいる教会を、立ち上がらせるための書です。
「未来の恐怖」を見せるためのものではなく、私たちの救い主である
「イエス・キリストの本当の姿」を私たちにハッキリと見せるために書かれたものなのです。
今日読む1章は、その黙示録全体の「表紙」であり、「中心メッセージ」がぎゅっと詰まった章です。

akira
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【黙示録の真実】教会の真ん中に立つ栄光のキリスト

啓示の起源から伝達まで(1-3節)

神は、ご自身の隠されていた救いのご計画を明らかにするため、
イエス・キリストに啓示を与えました。
そして御使いを通してパトモス島に流刑されていたヨハネに伝えられ、
さらに私たち(信徒)へと伝達されました。

冒頭、1章1節にはこう書いてあります。
「イエス・キリストの黙示」。
この「黙示」という言葉は、ギリシャ語で「アポカリュプシス( apokálypsis )」と言い、
「覆いを取り除くこと」「ベールを脱がせる」「明らかにする」という意味があります。
つまり、この本は私たちを怖がらせるための本ではなく、
「イエス・キリストの真実の姿を明らかにして、私たちに希望を与える本」なのです。

3節には、この予言の言葉を朗読する者、聞く者、そして何より生活の中で守り行う者は「幸い=ギリシャ語(マカリオス μακαριος)」であると、「第一の幸い」が宣言されます。

黙示録には、7つの「幸い」が記されています。(pdf参照)
「幸い(祝福)」を意味するギリシア語は、複数形(〜な者たちは幸いである)で
「幸いな人々」μακάριοι(マカリオイ) です。

新約聖書の「山上の垂訓」でも使われる言葉で、単なる一時的な幸福ではなく、
「神の恵みにあずかっている状態」という深い霊的な喜びを指します。
黙示録には、単数形(〜な者は幸いである)で「幸いな人」μακάριος(マカリオス)も使われています。
今後のために、各箇所の冒頭部分を読みます。

  1. 1:3 — μακάριος ὁ ἀναγινώσκων… (マカリオス・ホ・アナギノースコーン) 「朗読する者は幸いである」
  2. 14:13 — μακάριοι οἱ νεκροὶ οἱ ἐν κυρίῳ ἀποθνῄσκοντες… (マカリオイ・ホイ・ネクロイ・ホイ・エン・キュリオー・アポトネーコーンテス) 「主にあって死ぬ死者は幸いである」
  3. 16:15 — μακάριος ὁ γρηγορῶν… (マカリオス・ホ・グレゴールーン) 「目を覚ましている者は幸いである」
  4. 19:9 — μακάριοι οἱ εἰς τὸ δεῖπνον τοῦ γάμου τοῦ ἀρνίου κεκλημένοι… (マカリオイ・ホイ・エイス・ト・デイプノン・トゥ・ガムー・トゥ・アルニウ・ケクレメーノイ) 「小羊の婚宴の夕食に招かれている者は幸いである」
  5. 20:6 — μακάριος καὶ ἅγιος ὁ ἔχων μέρος ἐν τῇ ἀναστάσει τῇ πρώτῃ… (マカリオス・カイ・ハギオス・ホ・エコーン・メロス・エン・テー・アナスタセイ・テー・プローテー) 「第一の復活に預かる者は幸いであり、聖なる者である」
  6. 22:7 — μακάριος ὁ τηρών… (マカリオス・ホ・テーローン) 「(言葉を)守る者は幸いである」
  7. 22:14 — μακάριοι οἱ πλύνοντες τὰς στολὰς αὐτῶν… (マカリオイ・ホイ・プリュノーンテス・タス・ストラス・アウトーン) 「自分の衣を洗う者たちは幸いである」

以上の7つ、

黙示録は「裁きの書」と思われがちですが、この μακάριος(マカリオス) が7回も繰り返されていることに注目すると、
「この書の本質は、困難の中にいる教会のメンバーに『神の祝福』を確信させることにある」というメッセージなんです。

・3節の後半には「時が近づいている」とあります。
これは「もうすぐ世界が終わるから、急いでやりなさい」という脅しではありません。むしろ、「今はどんなに暗く見えても、神の勝利の時はすぐそこまで来ている。だから、今の苦難に飲み込まれず、神の言葉の中にいなさい。それがあなたを最後まで支える最大の幸い(マカリオス)だからだ」という、愛に満ちた招きです。

この「時が近づいている」をもう少し詳しく説明しましょう。
時計の時間(クロノス Χρόνος )が短いことではなく、
神の決定的な時(カイロス Καιρός )が迫っているという切迫性を表しています。

聖書における「時間」は二つの概念

クロノス(Χρόνος)とカイロス(Καιρός)と言う二つの「時」の概念です。
これらを知らないと聖書を正しく理解出来ませんので、これを説明します。(pdf参照)

ヨハネの黙示録1章には、「すぐにも(1:1)」や「時が近い(1:3)」といった、時間に関する切迫した表現が登場します。

① クロノス的視点:待機と忍耐(1:1)
意味: 物事が順番に、速やかに進む様子を指します。
解説: 「すぐにも(en takei)」は、単に「5分後に」というスピード感だけではなく、「一度始まったら止まらない」「一気に成就する」という連続性を暗示しています。人間の歴史(クロノス)の枠組みの中で、神の計画が着実に進行していることを示します。

② カイロス的視点:神の介入と宣告(1:3)
意味: 「意味のある特別な時」「神の好機」を指します。
解説: 1:3の「時(カイロス)が近い」は、カレンダーの枚数の問題ではありません。これは「救いの歴史の窓が閉じようとしている」「神の支配が決定的に現れるその瞬間が、鼻の先まで来ている」という霊的な宣告です。

私たちは今、単にカレンダーをめくるだけの毎日(クロノス)を生きているのではありません。いつ主と対面してもおかしくない「決定的な瞬間(カイロス)」の直前に立っているのです。

私たちは「どの時間」を生きているか
私たちは「あと何年で再臨か?」というクロノス的な計算に陥りがちです。しかし、黙示録が教えるのはカイロスです。「今、この瞬間が神の時である」という緊張感です。

二つの時間の交差点
クロノスの苦しみ: 迫害の中にいたヨハネにとって、クロノス(流刑の日々)は長く、退屈で、苦痛だったでしょう。
カイロスの介入: しかし「主の日(1:10)」、つまりカイロスがクロノスの中に突き刺さりました。
栄光の主が現れたとき、ヨハネにとっての「時間の意味」は完全に塗り替えられました。

カイロスを生きる幸い
1:3の「幸いである」という言葉は、カイロスを意識して生きる人への祝福です。
「時(カイロス)が近い」からこそ、私たちは今、愛し、今、悔い改め、今、証しするのです。

ルカ2章で学んだ二つの「言葉」

ギリシャ語で言葉は「ロゴス」と「レーマ」があることを私たちは知りました。
「ロゴス」と「レーマ」の違いは、「楽譜」と「演奏」の違いに例えることができます。
比喩的に解釈すると、「ロゴス」は「楽譜」です。そこには普遍的で完璧な真理が記されていますが、紙の上の情報です。
一方で「レーマ」は、その楽譜が実際に音として奏でられる「演奏」です。今、目の前で音が響き(語られた言葉)、空気が震え(力ある介入)、聴く者の心に直接届く(個別的適用)という「出来事」そのものを指しています。

三位一体の神からの挨拶(4-5a節)

ヨハネは、アジアにある七つの教会へ手紙を送る形で、三位一体の神からの挨拶を記します。
父なる神は「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」として、出エジプト記3章14節の「わたしはある」と言う者である。の展開形で示され、歴史全体を支配する主権者であることが明らかにされます。
聖霊は「神の御座の前におられる七つの霊」として、イザヤ書11章2節に基づく完全な聖霊の象徴的表現の七つ(七は完全数)で表されています。

御子イエスは三つの称号

  • 「忠実な証人」(死に至るまで真理を証しした預言者的職務)、
  • 「死者の中から最初に生まれた方」(復活の初穂としての祭司的職務)、
  • 「地上の王たちの支配者」(カエサルではなくキリストこそが真の王という王的職務)で呼ばれます。

キリストの御業と信徒の新しい身分(5b-6節)

ここで賛美(頌栄)が捧げられ、キリストの御業の時系列が明確に示されます。
まず、キリストは私たちを愛しておられる(現在形・継続的な愛)、
次に十字架の血によって罪の縄目から解き放たれた(アオリスト・過去の完了した出来事)、
そして私たちを王国とし、祭司とされた(現在の新しい身分)という順序で、
救いの恵みが展開されています。

私たちは単なる「救われた個人」ではなく、神に仕える「祭司」という栄光ある身分を与えられているのです。

再臨の宣言―黙示録全体の主題歌(7節)

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン」という7節は、黙示録全体の主題歌とも言える重要な聖句で、三つの真理を含んでいます。

第一に、「雲に乗って来られる」とは旧約聖書ダニエル書7章13節からの引用です。
聖書において雲は神の臨在(シェキナー)を表し、イエス様がかつての「弱く、貧しい姿」ではなく、全宇宙を統治する神の威厳をまとって、公の王として堂々と帰って来られることを意味します。

第二に、「すべての目、突き刺した者たちが彼を見る」とはゼカリヤ書12章10節の預言の引用です。
キリストの再臨は世界中の人々が同時に目撃する出来事であり、十字架でイエス様を嘲り、神を拒絶した者たちも、その方が真実の主であったことを認めざるを得なくなります。

第三に、「地上の諸族は嘆く」とは、あまりの栄光を前に自分の罪深さを思い知らされる「悔い改めの嘆き」と、自分の力や富を頼りに生きてきた人々が絶望する
「審判の嘆き」の両方を含み、ヨハネは「しかり。アーメン」という言葉で、悪がはびこる世界が終わり、主の正しい統治が始まることを心から待ち望んでいます。

全能者の自己宣言(8節)

神は「わたしはアルファであり、オメガである」と宣言されます。
ご存知の方が多いと思われますが、これはギリシア文字アルファベットの最初と最後の文字です。
歴史の開始者であり完成者である神を表し、全能者=(ギリシャ語パントクラトール)がこの書の真実性を保証する署名をしておられます。

ローマ皇帝ドミティアヌスが「主・神」と自称していた時代に、「いや、この方こそが全能者だ」と宣言する強烈な対抗メッセージとなっています。

ヨハネの状況と幻の始まり(9-10節)

ヨハネは自分を「兄弟であり、共に患難と御国と忍耐にあずかっている者」と紹介し、信徒と同じ立場に立っていることを示します。
彼はイエスの証しのゆえに、エーゲ海に浮かぶ孤島パトモス島に流刑されており、おそらくドミティアヌス帝の迫害によるものでした。

ある主の日(日曜日、復活の日)に、ヨハネは御霊に感じて(霊的な恍惚状態で)特別な啓示を受け、背後にラッパのように大きな声を聞きました。

栄光のキリストの幻(11-16節)

振り返ると、ヨハネは七つの金の燭台を見、その真ん中に「人の子のような方」が立っておられました。
このお姿はダニエル書7章13節と10章の幻を背景にしており、福音書に書かれている
「貧しい大工の息子」としてのイエス様ではありませんでした。
主は足まで垂れた衣と金の帯を身に着け(祭司的・王的威厳)、
頭と髪は白い羊毛のようで(ダニエル7:9、永遠性と純潔)、
目は燃える炎のようで(すべてを見通す審きの目)、
足は炉で精錬された真鍮のようで(確固たる権威)、
声は大水の轟きのようで(力強い権威ある声)、
右手に七つの星を持ち(七つの教会の指導者を保持)、
口からは両刃の剣が出ており(ヘブル4:12、神の言葉の力)、
顔は強く照り輝く太陽のようでした(栄光の輝き)。

最も重要なのは、この栄光の主が「どこに立っておられたか」です。
主は遠い天の向こう側ではなく、「七つの燭台(教会)の真ん中」
に立っておられました。これは大きな慰めです。
教会や私たちの人生が暗闇の中に閉じ込められているように感じる時も、
主はその暗闇を照らす燭台(教会)のすぐそば、
そのど真ん中に、力強い姿で立っておられるのです。

恐れるなとの宣言(17-18節)なぜ恐れなくてよいのか

あまりの威厳に、ヨハネは死人のように主の足元に倒れ伏しました。しかし主は右手を置いて励まし、「恐れるな。わたしは最初であり、最後であり、生きている者である。
わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。
また、死とハデスの鍵を持っている」と宣言されました。

当時、クリスチャンにとって最大の恐怖は「死」でした。
皇帝に背けば命を奪われる時代だったのです。
しかし復活された主は「死の鍵を持っているのは皇帝ではない。このわたしだ。
わたしが死を打ち破った。だから、あなたはもう死を恐れる必要はない」と宣言されます。
これは、死と黄泉に対する完全な勝利を意味しています。
私たちの人生を最後に締めくくるのは、病気でも、不運でも、死でもなく、「アルファでありオメガである(最初であり最後である)」と言われる主イエス様ご自身なのです。

幻の解釈と使命(19-20節)

主はヨハネに命じます。「あなたが見たこと、今あること、この後に起こることを書き記せ」と。
そして幻の解釈が与えられます。
七つの星は七つの教会の使者(指導者)であり、七つの燭台は七つの教会です。
主の右手に「七つの星」が握られているということは、教会の指導者や教会そのものが、栄光の主の保護と支配の下にあることを象徴しています。

今、悩みの中にいる方、孤独を感じている方、将来に不安を感じている方がいるかもしれません。
しかし忘れないでください。あなたは、あの栄光の主の「右手」の中にしっかりと握られています。主はあなたの弱さも、痛みもすべて知った上で、「恐れるな、わたしが鍵を持っている」と語りかけてくださっています。

結論

黙示録1章は私たちにこう問いかけています。
「あなたは目の前の困難を見ますか?
それとも、あなたの真ん中に立っておられる勝利の主を見ますか?」
パトモス島という孤独と苦難の場所で、ヨハネは最も壮大な啓示を受けました。
私たちの苦しみの場所も、神との出会いの場所となり得るのです。
黙示録の主題は「イエス・キリストは死んで終わった方ではなく、今も生きて働いておられる」
ということであり、「勝利の主が、今、あなたと共にいる」という事実です。
困難な時代にこそ、この真理が私たちの慰めとなるのです。
私たちは明日からまた、それぞれの現実の中に戻っていきます。
難しい問題や、パトモス島のような孤独が待っているかもしれません。

しかし、どうか思い出してください。
栄光の主が、あなたの肩に手を置いて、「恐れるな」と言ってくださっています。
「わたしが、あなたの人生の鍵を持っている。だから、安心して歩みなさい」
この主の励ましを受け取って、今週も一歩ずつ歩んでいきましょう。

祈り

天の父なる神様。
今日、黙示録の御言葉を通して、私たちの主イエス・キリストがどれほど力強く、また慈しみ深いお方であるかを教えてくださり、感謝します。
悩みや不安の中にいるお一人お一人の肩に、主がその力強い右手を置いてくださり、「恐れるな」と語りかけてください。
死に勝利し、今も生きておられる主と共に、明日からの日々を希望を持って歩ませてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン


【招き】
愛する皆さん、また、オンラインで参加された方。

もし今日、「イエス・キリストを自分の救い主として信じます」と告白したい方は、
黒部カリスアガペー教会のHPへ書き込むか、電話をして来てください。
年齢は関係ありません。
若い方も、人生の後半の方も、神様の招きに年齢制限はありません。

「でも、自分は罪深すぎる」と思っている方、
まさにあなたのためにキリストは来られたのです。

「でも、まだ準備ができていない」と思う方、
完璧になってから来る必要はありません。

あなたのそのままで来てください。

今日が、あなたの人生の転換点となるかもしれません。
神様は、今、あなたを招いておられます。
どうぞ、告白してください。

教会HP https://king-lord.org/contact/

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