皆さん、おはようございます。
今日は創世記18章を一緒に見ていきたいと思います。この章には本当に素晴らしい場面が二つ出てきます。
一つ目は、神様がアブラハムを訪問される場面。二つ目は、アブラハムが必死になって神様に祈る場面です。
アブラハムは、ユダヤ民族の「信仰の父」であり、最初のユダヤ人と呼ばれる人物です。
ゆえに、モーセ五書である創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の中でも、
創世記18章に記されたアブラハムの物語は、古来ユダヤ教において特別な重みをもって読まれてきました。
バビロン捕囚(紀元前586年頃)を経験した後、ユダヤ人たちは新しい礼拝の形を確立しました。
毎週のシャバット(安息日)に、シナゴーグで朝の礼拝を行い、その中でトーラーポーション
(聖書朗読箇所)を順番に読んでいくという伝統です。
また、トーラー(モーセ五書)に記された神の命令(ミツワー)を体系的に数え上げた613の律法リストがあります。
これは12世紀のラビ、マイモニデスによって確立されたもので、248の「せよ」という積極的命令と、
365の「するな」という消極的命令から成っています。
その中で一番大事な掟(ハラハー)の一つが「おもてなし」なんです。それともう一つ、「お見舞い」。
面白いことに、「病人を見舞いなさい」とか「客人をもてなしなさい」って、レビ記や民数記には書いてないんですよ。直接の命令がない。
じゃあ、どこから学んだのか。それはアブラハムの行動からなんです。
つまり、ユダヤ人にとって創世記は、単なる昔話じゃないんですね。アブラハムが何をしたか、
どう振る舞ったかを見て、「じゃあ私たちはどう生きるべきか」を学ぶんです。
これがユダヤ人の聖書の読み方の基本なんですね。
もちろん、テキストをちゃんと理解することは大前提です。でも、
前後関係から「ここはこういう意味だ」って決めつけて、そこで終わっちゃうとダメなんです。
ユダヤ人はどう読むか。
ラビは「ここはこう読みなさい」って一つの正解を出して終わりにしない。ここが日本人と全然違うところです。
一つの質問に対して、いくつもの答えを出し続けるんです。
それはなぜか。
根本的な考え方として、「人間は神様のお考えを全部理解できるほどの力を持っていない」と思っているからです。
部分的には分かる。でも、神様が、あるいは天使を通して意図されたことを、人間が100%理解することはできない。
だから、ずっと問い続ける。ずっと探し続ける。答えを出し続ける。
だから聖書解釈、ミドラッシュ的解釈に終わりはないんです。
ここでイントロダクションは終わり。では、本題に入っていきましょう。
1-15節: マムレの樫の木での神の顕現と、サラへの約束
神の客をもてなす信仰(1-8節)
真昼の暑い時間です。アブラハムは天幕の入口で座っていました。すると突然、三人の人が彼の前に立っていた。
これが、主の訪問、神の来臨なんですね。
多くの箇所で天使が現われる時は、シェキナーの名(主の名・神の臨在そのもの)で呼ばれる。
普通なら、こんな暑い時間に「ああ、お客さんか。面倒だな」って思うかもしれませんよね。でも、
アブラハムは違ったんです。彼は急いで走って行って、地面にひれ伏して言いました。「どうか、お立ち寄りください!」と。
さて、原文のヘブル語を見ますと、アブラハムとは書いていない。
( ו:ירא ヴァ・イェラー )主は現れこのように言った、との動詞。
さらに、何ゆえに聖書は「日の暑いころ」と書く必要があったのか。
前回の17章では割礼がありましたね、
ここの1節は割礼の続きでありラビ・ハニナの子ラビ・ハマは
「その目はアブラハムが割礼をしてから三日目であった。そこで神様がアブラハムのお見舞いに来たのだ。神様は暑い太陽を昇らせ、この義人が接客をしなくても良いようにしたのだ」と解釈。
また、3人の天使は誰なのか?
ユダヤの伝承では3人の天使は、ミカエル、ラファエル、ガブリエルという伝承がある。
・ミカエル(מִיכָאֵל)がアブラハム・サラ夫婦に息子イサクが生まれることを告げるためにやって来た。19章で甥のロト救出の使命。
・ラファエル(רְפָאֵל)はアブラハムが割礼後で痛いので癒すため、そして甥ロトを救出(少数派の見解)にやってきた。
・ガブリエル(גַּבְרִיאֵל)は19章のソドムとゴモラを滅ぼすためにやってきた。
おもてなしの心
そしてアブラハムは何をしたか。水を持ってきて足を洗わせ、木陰で休んでもらい、それから急いで食事の準備を始めたんです。
古代の遊牧生活では、旅人をもてなすことは旅人の命を守る行為でした。
でもアブラハムの行動は、それを遥かに超えています。
「少しパンを取って、元気をつけてください」って言いながら、実際には何を用意したか。
子牛を一頭、柔らかくておいしいやつを選んで、若い者に料理させました。
ミドラーシュ・ラバは、この「若い者」をイシュマエル(アブラハムの息子)と結びつける解釈があります。
それにパンとバター、ミルクも添えて。これは「少し」じゃないですよね!豪華なごちそうです。
客人の接待は、シェキナー(神様)を迎えることよりも重要なことである
ユダヤ賢者の一般的理解は、1節が神様によるお見舞い、割礼をして痛い思いをしているアブラハムを神様が見舞ったと理解する。
2節からはアブラハムによる客人のもてなしである。
18章にはユダヤ教における2つの重大な掟「病人の見舞い」と「客人のもてなし」が連続して語られている。
ここで問題になるのは、どちらがより重要な掟で、どちらが優先されるかという問いです。
2種類の掟を同時期に実行しなければならない場合、どちらを先に実行するか判断しなければならない。
そもそも掟の目的は、神様に近づくためである。そこで、「神様を迎える」ことの方がより重要という結論が出る。
しかしこの結論は同時に問題を含んでいる。信仰のためなら、他のことを犠牲にしてもいいのかという問題である。
さらに、神様に対する罪は、悔い改めの祈りと神様の憐れみで赦される道が残されているが、
人に対する罪は、祈りだけでは解決できないということを合わせて考えると、どう結論されるべきであろうか。
創世記18章は、客人の接待をしている最中に、子供が生まれるという予言を告げられたと伝えている。
そこでユダヤ教では、「客人の接待は、シェキナー(神様)を迎えることよりも重要なことである」と結論を下している。
神さまと対座することには、時間と場所を選ばない、しかし、お客さんはその時しか来ない。
・ヘブル書13章2節にこう書いてあります。
“「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人々は知らずに天使たちをもてなしました」”
私たちの教会は、どうでしょうか。初めて来られた方を、どんな風に迎えるでしょうか。
また、神様は思いがけない形で訪れるということです。
アブラハムは最初、この三人が誰なのか完全には分かっていなかったかもしれません。
でも、彼は謙虚に、丁寧に接しました。
私たちの日常生活の中でも、神様は思いがけない形で、思いがけない人を通して訪れることがあるんです。
イサク誕生の約束の再確認(9-15節)

・信じられない約束
さて、この訪問者たちは食事をしながら、アブラハムに聞きました。9節「あなたの妻サラはどこにいますか」
サラは天幕の中で聞いていました。そして訪問者の一人が言ったんです。10節「来年の今ごろ、サラには男の子が生まれるでしょう」
・心の中の笑い
その時、サラは心の中で笑いました。なぜか。彼女はもう90歳(創世記17:17)を過ぎていたんです。アブラハムも100歳近い。「年老いた私に、そんな楽しみがあるでしょうか」って思ったんですね。月経が完全に止まっていた、生殖能力が完全に失われていたんです。
「皆さん、中には疑問に思う方がいるかもしれません。『サラは月経が止まっていたのに、どうやって妊娠したのか』と。
実は、聖書はその詳細を記していません。おそらく意図的にです。
なぜか。
どうやってという方法よりも、神様がされたという事実が重要だからです。
神様は、サラの身体を奇跡的に回復させたかもしれません。
あるいは、通常の生理プロセスを超越して、直接命を与えられたかもしれません。
どちらにせよ、これは完全な奇跡です。
医学的に説明できることではありません。人間の理解を超えたことです。
だからこそ、イサクは『笑い』という名前を持ち、奇跡の子として記憶されているんです。
『主に不可能なことがあろうか』この言葉が、ここで輝くんです。
あなたの状況が、医学的に、科学的に、常識的に不可能だとしても、
神様には不可能はありません。
経済的な困難、家族の問題、健康の不安、人間関係の破綻。私たちには解決できないことがたくさんあります。
でも、神様には不可能はありません。
神様は方法を知っておられます。
私たちが理解できなくても、神様はできるんです」
・正直であること
15節、サラは怖くなって「笑っていません」と言いました。でも神様は言われました。「いや、あなたは確かに笑った」
神様は私たちの心の奥底まで全部ご存知です。
だから、神様の前で格好をつける必要はないんです。正直でいいんです。
疑いも、不安も、弱さも、全部神様に正直に告白していいんです。
新約聖書には
ヘブル11章11節:「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」
と記されています。
16-33節: ソドムとゴモラをめぐるアブラハムの執り成しの祈り
そして物語は後半、「ソドムの裁き」へ移ります。
神はアブラハムに、ソドムの罪を知らせます。
なぜ知らせたのか。
それはアブラハムが「とりなしをする人」だからです。
アブラハムは大胆に、しかし慎み深く言います。
「五十人の義人がいたら、町を救われませんか?」
「では四十五人では?」
「四十人では?」
「三十人では? 二十人では? 十人では?」と。
神の計画を共有される神(16-21節)
聖書には、神がアブラハムに現れたのは目的があったと記されています。
なぜ、アブラハムに直接神が、天使がアブラハムに姿を現したのか?
その答えは、アブラハムが「預言者」として選ばれ、特別な使命を与えられた存在だったからです。
17節 “「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか?」”
という神の言葉があります。
これは、神がご自身の計画を預言者には明かすという原則を示しています。
アブラハムは、単なる信仰の父ではなく、神の意志を聞き、受け継ぐ者として選ばれたのです。
創世記18章の二つのテーマのつながり
18章は、大きく分けて、前半:三人の客人(神または天使)をもてなすアブラハムの物語
後半:ソドムとゴモラの滅びの宣告、という、一見すると異なる内容が描かれています。
しかし、この二つは17章~19章の流れの中で深く結びついています。
17章:神がアブラハムと契約を結び、「子孫を通して祝福が及ぶ」と約束
18章:客人をもてなすアブラハムの「正しさ」が示され(接待の美徳)、同時に、ソドムの滅びが宣告される(神の裁き)。
19章:ソドムの滅亡と、ロトの救出
この流れは、アブラハムが選ばれた理由と使命を明らかにするためです。
神はアブラハムに、19節「正義(ツェダカー)と公正(ミシュパット)を行う者」として、子孫に道を教える使命
「諸国民の祝福の源」(12章3節)となる役割を与えたのです。
つまり、創世記18章19節は、神の独白(モノローグ)という形で語られる、アブラハムの選びと使命を明らかにする最初の宣言である。
1,「彼を知った」=神の選び・契約
2,使命=子どもに神の道を教えること
3,内容=正義(ツェダカー)と公正(ミシュパット)
4,だから神は計画をアブラハムに隠さない
5,18章前半の“もてなし”と後半の“裁き”をつなぐ中心文
6,救いの歴史の起点となる神学的宣言
アブラハムの執り成しの祈り(22-33節)
20節~23節でソドムを滅ばすことを聞いた
アブラハムは近づいて神との対話に入っていった
アブラハムが他の人と違うところ抜きん出ているところは、神様に近づいて対話をしているところ。
10人まではネゴシエーションした。神に食い下がった。
アブラハムが選ばれた目的が「この地に正義と公正をする」こと。
・ソドムの滅ぼし
アブラハムの祈りは「交渉」ではなく「神の性質の理解に基づく告白」。
50 → 45 → 40 → 30 → 20 → 10
漸減(ぜんげん)構造(grading sequence)で描かれるリズムはヘブル文学の特徴。
・ソドムに10人の正しい人もいなかったのか
ソドムには10人の正しい人さえいませんでした。では、町全体を滅ぼすほど、それほどひどい状況だったのでしょうか。
原文で使われている「叫び」(ツェアカー、צְעָקָה)とは、一体何を意味するのでしょうか。
・ラビの伝承:ロトの娘の物語
ユダヤ教のラビの書物、ミドラッシュ(聖書解釈集)のキンテピラピネーゼルには、こんな物語が伝えられています:
「ソドムでは、こんな法律が制定されていた。
『誰でも貧しい者、弱い者、外国人にパン一切れでも与える者は、火あぶりにする』
ロトの娘の一人クロピックは、ソドムの有力者に嫁いでいました。
ある日、彼女は通りで飢えた貧しい人を見かけ、心を痛めました。彼女は何をしたか。
毎日水を汲みに行く時、バケツの中に食料を隠して入れ、その貧しい人に与えて養ったのです。ソドムの人々は不思議に思いました。『なぜあの貧乏人は死なないのだろう。どうやって生きているんだろう』
やがて彼女のことが知れ渡り、ソドムの人々は彼女を火あぶりにしようとしました。その時、彼女は叫びました。
『世界の神よ、私をお助けください。ソドムの人々に裁きを行ってください』
彼女の叫びが天に上がり、神の栄光の座に届きました。そこで神は言われた。
『わたしは下って行って見よう。わたしに届いた叫びの通りかどうかを。
もしソドムの人たちが、この女の叫び通りのことを行っていたなら、その地盤をひっくり返してしまおう』」
と言った。ユダヤ教での中で伝わっている。
さて、皆さんの中には思う方がいるかもしれません。
「これは聖書に書いていない作り話じゃないか」と。
しかし、そう笑って済ませてしまったら、大事なことを見落とすことになります。
ラビたちがなぜこのような物語を作ったのか、そこには深い理由があるのです。
問われているのは「社会制度としての悪」
・ユダヤ人の学者たちが論じたのは、こういうことです:
「なぜ、町全体が焼き滅ぼされるほどの罪になるのか」
国に悪人が何人かいる、それだけでは町全体が滅ぼされる理由にはなりません。
では、町全体、国全体が滅ぼされるほどの罪とは何なのか。
この物語が指摘しているのは、「社会の規則として、このようなことが制定される社会」の恐ろしさです。
まり、悪人が何人いたかという数の問題ではない。悪の度合いの問題でもない。
社会の制度として、弱者を助けることを禁じ、それを罰する法律を作る、これほど悪いことはない、とユダヤ教は論じてきたのです。
だから、このような物語が生まれたのです。
これを単なる「作り話」と笑ってしまったら、この深い洞察を見落とすことになります。
・ラビ・マイモニデスの教え
中世の偉大なラビ、マイモニデスはこう教えています:
「人間は毎年、自分自身を見つめて、こう考えなさい。『自分は半分が無罪、半分が有罪だ』と。50対50なんだと。
そして、自分だけでなく、世界全体も同じように考えなさい。『世界も半分が罪なく、半分に罪がある』と。もしあなたが一つでも罪を犯せば、天秤は罪のほうに傾く。有罪と無罪というバランスが崩れてしまう。
その結果、世界が破滅へと向かうかもしれない。
反対に、あなたが聖なる掟を一つ行えば、自分自身を、そして世界を、無罪のほうに傾けることができる。
そうすることで、世界に救いをもたらすことができるのだ」
(ハラコスティシバー、悔い改めの詩『悔い改めの法』より)
・ソドムの本当の罪
ユダヤ人の学者たちが理解したことは、こうです:
個人が悪を行っているだけでは、天から火が降って焼き尽くされるほどの裁きにはならない。
しかし、社会の掟として、法律として、弱い者を打ち砕くことが制定されるなら、
それは天から火が降って来て焼き滅ぼされても仕方がない悪である、と。
ただし、聖書は語っています。最低でも10人の正しい人が必要だと。
この「10人」という数字は、ユダヤ教の祈りに必要な成人男性の最小人数(ミニャン)と同じです。
つまり、最低限の信仰共同体が必要だということです。
・エゼキエル書の証言
預言者エゼキエルも、ソドムの罪について語っています:
エゼキエル16:49
“「だが、あなたの妹ソドムの咎はこのようだった。彼女とその娘たちは高慢で、飽食で、安逸を貪り、乏しい人や貧しい人に援助をしなかった」”
・ソドムの地理的・社会的背景
ソドムは荒野にありましたが、泉が湧いていました。つまり、豊かな場所だったのです。
彼らは考えました。「自分たちが良ければいい」と。
だから、飢えた者、弱い者、外国人に食料も飲み水も与えなかった。
「自分が安楽に生きていければ良い」という性根、その考え方に対して、神はNOと言われた
これがソドムの物語から見えてくる、ユダヤ教の理解です。
結末:
33節、神は立ち去る
物語は“未完のまま”終わる。
この未完性が19章の悲劇をより重くする。
【招きの言葉】
愛する皆さん。オンラインで参加された方々
創世記18章で、主はアブラハムを訪ねられました。
アブラハムはその招きを逃さず、
すぐに立ち上がって主を迎え、
心を込めてもてなし、主の言葉を受け取りました。
今日、同じ主が、
この礼拝の中で―そしてあなたの心の戸口で、
静かに語っておられます。
「わたしに心を開きなさい。
わたしはあなたを祝福したい。
あなたを罪から救い、
あなたの人生に新しい約束を与えたい。」
主は怒りではなく、祝福と憐れみをもって来られます。
ソドムを裁かれる神が、
同時にアブラハムとサラを笑いで満たされたように、
主はあなたにも、失われた喜びを回復したいと願っています。
もし今日、
「主よ、わたしの人生にも来てください」
と願うなら、
その小さな願いが、信仰の第一歩です。
今、主はあなたの名を呼んでおられます。
主を受け入れたい方、
もう一度主の前に立ち帰りたい方、
祝福を求める方は、
どうぞ心の中で、静かに主にお応えください。
「主よ、私はあなたをお迎えします。
あなたの言葉に従います。
どうか私を導いてください。」
この祈りをささげる方に、
主は必ず応えてくださいます。アーメン
応答
もし今日、「イエス・キリストを自分の救い主として信じます」と告白したい方は、
黒部カリスアガペー教会のHPへ書き込むか、電話をして来てください。
年齢は関係ありません。
若い方も、人生の後半の方も、神様の招きに年齢制限はありません。
「でも、自分は罪深すぎる」と思っている方、
まさにあなたのためにキリストは来られたのです。
「でも、まだ準備ができていない」と思う方、
完璧になってから来る必要はありません。
あなたのそのままで来てください。
今日が、あなたの人生の転換点となるかもしれません。
神様は、今、あなたを招いておられます。
どうぞ、告白してください。
教会HP https://king-lord.org/contact/



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