皆さん、おはようございます。黒部カリスアガペー教会のたばたと申します。今日初めて教会に来られた方もおられるかもしれません。ようこそおいでくださいました。
富山・黒部で生活していると、季節の変化をすごくはっきり感じますよね。
雪が降る季節には、朝起きてまず窓の外を見て、『今日はどれくらい積もったかな』『道路は大丈夫かな』と確認する。
春になれば、山の雪解けを見てほっとする。
私たちは、空や山や海を見ながら、『今日は大丈夫か』『この先はどうなるか』と、いつもどこかで気にしながら生きています。
40代・50代になると、それが“天気”だけではなくなります。
朝、スマホを開いてニュースを見る。
景気のニュース、物価高騰、年金の話、戦争のニュース。
通知には、会社のメールやLINEもどんどん入ってくる。
そして、心のどこかでこう思うことがあります。
『この先、本当に大丈夫なんだろうか。
自分の仕事、家族、老後…この国や世界はいったいどうなっていくんだろうか。』
この年代になると、
・仕事では責任が重くなり、部下の面倒も見ないといけない。
・家では、子どもは大きくなり、親は年を取り始める。
・住宅ローンや教育費、親の介護、自分の健康も気になってくる。
人にはあまり言わないけれど、夜ふと目が覚めて、天井を見ながら考え込んでしまうことはないでしょうか。
『ここまで自分なりに頑張ってきたけれど、これから先、本当にやっていけるんだろうか』
『もし仕事を失ったら、自分の居場所がなくなったら、私は何者になるんだろうか』
私たちはそれを埋めるために、もっと頑張って働こうとします。
もっとお金を貯めようとします。
もっと評価を得ようと、結果を出そうとします。
でも、不思議なことに、頑張れば頑張るほど、“安心”が増えるわけではない。
どこかで、こう感じてしまうことがあります。
『ゴールがどこにあるのか分からないマラソンを、ずっと走らされているみたいだ』と。実は当時の私もそう思っていました。
聖書の最後の書、“ヨハネの黙示録”という本には、ちょっと意外な場面が出てきます。
それは、“不安だらけの地上”ではなく、“もう一つの世界”の様子です。
そこには、私たちが毎日ニュースやSNSで見ている世界とは違う、『決して動かない中心』が描かれています。
今日は、黙示録4章という場所から、その“見えない世界”の一場面を一緒に見てみたいと思います。
そこには、あなたの人生を知らない“遠い神さま”ではなく、
あなたの不安も、失敗も、そしてここまでの頑張りも、
すべてをご存じの本当の王がおられる―
聖書はそう語っています。
では、聖書の黙示録4章をお読みします。【聖書朗読】
「いま、黙示録4章の一場面をお読みしました。前回までの2章、3章で地上の現実(悩みや戦い)を語った後、4章で視点は一気に「垂直方向」へと引き上げられます。
(前回の章ご興味があれば黙示録シリーズをご覧ください。もっと現実味が湧いてきます)
少し不思議な、映画のような場面だったかもしれません。
ヨハネが見たのは「天に開かれた門」でした。
これは、地上の重力から解放され、人生を「上からの視点」へアップデートせよという招待状です。
ヨハネが天で最初に見たのは、システムの背後にある「御座(椅子)」と「そこに座っておられる方」でした。
私たちの人生は、偶然や運、あるいは誰かの悪意で動いているように見えます。
しかし、聖書は断言します。世界の中心には「空席ではない椅子」がある、と。
そして、その周りでは、昼も夜も途切れることのない礼拝がささげられている。
さらに、自分の冠を持っている人たちが、その冠を王の前に投げ出している光景が描かれていました。
これは、ただの“宗教的な幻想”でも、“怖い終末のシーン”でもありません。
聖書は、このビジョンを通して、
『目には見えないが、実際に存在している現実』をわたしたちに教えようとしています。
ここから、三つのことを一緒に考えたいと思います。
一つ目は、『視点を変える招き』です。
地上の不安だけではなく、“上の世界”を見るように、という招き。
二つ目は、『本当の王の前に、自分の冠を置くこと』です。
つまり、自分が中心の生き方から、一歩降りること。
そして三つ目は、『その王こそ、イエス・キリストだ』ということです。
このお方を、自分の人生の王として迎えることができるのかどうか。
それではまず最初に、このビジョンに込められている
『視点を変える招き』から見ていきたいと思います。」
視点を変える招き
「最初のポイントは、『視点を変える招き』です。
黙示録4章のはじめに、ヨハネは、地上の現実の真っただ中にいました。
教会は小さく、迫害もあり、状況だけを見ると、とても希望があるようには見えません。
そんな彼に対して聞こえてきたのが、『ここに上れ。この後、必ず起こることをあなたに示そう』という声でした。
これは、『現実から逃げなさい』という意味ではありません。
そうではなく、『地上だけを見て判断するのをやめて、“上からの視点”、神さまの側から人生を見てごらんなさい』というアップデートの招きです。
私たちも、普段は“下からの視点”で生きています。
会社の状況から、自分の価値を判断する。
通帳の残高から、将来の安心を計算する。
人の評価やSNSの反応から、今日一日の気分が上下する。
もちろん、それらは全部、現実的に大事なことです。
しかし、その“下からの視点”だけで生きていると、見えるものが揺れるたびに、心も揺さぶられてしまいます。
聖書の神は、ヨハネに言われたのと同じように、私たち一人一人にも、『ここに上って来なさい』と招いておられます。
『ニュースや数字や評価だけで、人生を判断しないで。
天に御座があり、すべてを見ておられる方の視点から、もう一度、自分の人生を見直してみなさい』と。
信仰とは、“現実を見ないこと”ではなく、“現実を見る前に、まず神を見る”生き方です。
天に御座があり、本当の王がおられるという前提から、仕事も、お金も、家族も、老後も見直していくこと。
そこから、不思議な平安が流れ込んできます。
本当の王の前に、自分の冠を置くこと
「二つ目のポイントは、『本当の王の前に、自分の冠を置くこと』です。
黙示録4章には、『二十四人の長老』という人たちが登場します。
彼らは、白い衣をまとい、頭には“冠”をかぶっていました。
つまり、彼らにはそれぞれの“栄誉”や“実績”、神さまの前で認められている“報い”があったということです。
40代・50代の方たちにも、それぞれの“冠”があります。
ここまで頑張ってきた仕事のキャリア。
不自由なく暮らせるようにと積み上げてきたお金。
家族や子どもたち、守ってきた家庭。
人からの信頼、評判、プライド。
どれも悪いものではありません。
むしろ、与えられた人生の中で、一生懸命に積み上げてきた“宝物”だと思います。
しかし聖書は、その長老たちが何をしたかをこう描きます。
10節 彼らは、御座に着いておられる方の前にひれ伏し、自分の冠を、その方の前に投げ出した、とあります。
それは、こう告白している姿です。
『私が持っているものは、すべてあなたから与えられたものです。本当にふさわしいのは、私ではなく、あなたお一人です。』
私たちは、気がつくと、“自分が王”のように生きてしまいます。
『これは自分の力で手に入れた』
『これは自分のものだ』
『自分の思いどおりにいかないと気が済まない』
そういう心が、誰の中にもあります。
でも、年齢を重ねるほど、自分ではコントロールできないことが増えていきます。
病気、事故、リストラ、家族の問題…。
どれだけ頑張っても、“自分の王座”がぐらぐら揺れる瞬間が来ます。
あなたが必死にコントロールしようとして、うまくいかずに疲弊しているその問題。
実は、あなた以上にそれを深く考え、完璧に治めている『最高責任者』がいます。
その方はパニックにならず、どっしりと座っておられます。
黙示録4章は、そこで一つの道を示します。
“自分が王であり続けること”をやめて、
“本当の王の前に、自分の冠を置く”という道です。
それは、
『今まで自分のために握りしめてきたものを、神さま、あなたのために用いてください』と差し出すことです。
『自分の計画やプライドよりも、あなたの御心がなることを、私は選びます』と告白することです。
クリスチャンになる、というのは、
“何か新しい宗教的なルールを始める”ということではありません。
一番深いところで、“自分が王の座から降りて、本当の王に座っていただく”ことです。
あなたの心の中には、たった一つの“王座”があります。
そこに今、座っているのは誰でしょうか。
自分でしょうか。
それとも、仕事でしょうか。
お金でしょうか。
世間体でしょうか。
黙示録4章の長老たちは、その王座の前にひれ伏し、自分の冠を王の前に置きました。
同じように、私たちも、『神さま、私は自分中心の生き方から降ります。
どうぞ、あなたが私の王となってください』と祈ることができます。
その王こそ、イエス・キリスト
「では、その御座におられる“本当の王”とは、具体的に誰なのか。
聖書は、そのお方がイエス・キリストであると語っています。
イエス・キリストは、ただの宗教家や、立派な教えをした人物ではありません。
聖書は、イエスを『神の子』『天地を造られた神が、人となって来られた方』だと言います。
本当の王であるお方が、自分の地位や栄光を捨てて、私たちと同じ弱さと痛みを持つ人間として、この地上に来られた。
なぜでしょうか。
それは、“自分が王となって神なしで生きている”私たちを、もう一度、神さまとの関係の中に取り戻すためです。
イエスは十字架の上で、私たちの罪、自分勝手さ、プライド、不信仰のすべてを背負い、
『わたしが身代わりになる』と言って、命をささげられました。
そして三日目によみがえり、今は天の御座の右に座っておられる、と聖書は語ります。
ですから、黙示録4章の御座には、私たちのことを知らない冷たい神ではなく、
あなたの痛みも、弱さも、孤独も、そして“言えなかった後悔”までも知っておられるイエスがおられるのです。
イエスはこう言われました。
『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』
これは、“よくできた人”への招きではありません。
むしろ、『もう自分の力だけでは無理です』と感じている人への招きです。
40代・50代まで、一生懸命走ってこられた方ほど、
『本当は、誰かに支えてほしかった』
『本当は、弱音を吐きたかった』
そんな思いを心のどこかに抱えておられるかもしれません。
イエス・キリストは、あなたのその本音を知ったうえで、こう言われます。
『その重荷を、一人で持ち続けなくていい。
あなたの王座から降りて、わたしをあなたの王として迎えなさい。
わたしが、あなたの人生を共に背負っていく。』
クリスチャンになる、というのは、完璧な人間になることでも、宗教的に立派になることでもありません。
“本当の王であるイエスに、自分の人生のハンドルを渡すこと”です。
『イエスさま、これからは、あなたと一緒に歩みたいです』と心で決めることです。
結び:黒部から天を見上げて
……今日お話しした黙示録4章の景色は、遠い未来の話ではありません。
今、この瞬間も、あなたを愛する神様が中心におられるという『真実』です。
立山連峰の頂きに登ると、下界の喧騒が小さく見え、澄み渡る空が近く感じられます。
この4章は、私たちの霊的な登山道です。
黒部カリスアガペー教会は、あなたがその重い冠をひと時下ろし、天の御座におられる方の
『恵み(カリス)』と『愛(アガペー)』に触れるための場所です。
このアガペーとは無条件の愛のことです。
この概念は、「子供が失敗しても変わらず愛する親の心、それ以上のものが神からあなたに向けられている」のです。
あなたが人生の霧を抜け、天の御座から流れる平安の名水に触れることができる場所です。
天の門は開いています。神様は、あなたが自分一人で頑張るのをやめて、その重荷を私に預けてほしいと願っておられます。
今日、この礼拝の中で、
『自分の冠を握りしめて生きてきた人生を終わりにしたい』
『自分が王である生き方から降りて、
イエス・キリストを自分の王として迎えたい』
そう願う方がおられるなら、
今が、その一歩を踏み出すときです。」
【決心への招き】
「ここで、静かに目を閉じていただきたいと思います。
これは宗教的な儀式ではなく、神さまの前で、自分の心の本当の思いを見つめる時間です。
もし、
『イエス・キリストに、自分の人生を委ねたい』
『本当の王として、心にお迎えしたい』
そのように思われる方は、心の中で、私が今お祈りする言葉を、
自分の言葉として、なぞるように祈ってみてください。
こう祈ります。
『神さま。
私は、これまで自分が中心となって生きてきました。
あなたを知らず、自分の思いと力に頼ってきました。
今日、イエス・キリストのことを聞きました。
本当の王であるあなたが、
私の罪のために十字架で死に、よみがえられたことを信じます。
今、自分の“冠”、自分中心だった生き方を、あなたの前に置きます。
どうか、私を赦してください。
そして、イエス・キリストが私の心に入り、私の王となってください。
これからの人生を、あなたと共に歩ませてください。
イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。』
今、この祈りを心の中でささげた方がいるなら、
神さまはその祈りを必ず聞いておられます。
天の御座から、あなたの新しい一歩を喜んで見ておられます。
もし、あとで『この祈りを自分もささげました』という方がおられたら、
どうぞ、私にそっと声をかけてください。
一緒に、これからの歩みのことをお話しできたら嬉しく思います。
この動画が、あなたの人生の『新しい門』になりますように。
もし心に響くものがあったら、ぜひコメント欄で教えてください。
それでは、あなたの上に、神様の豊かなカリス(恵み)とアガペー(愛)がありますように。
また次の動画でお会いしましょう。


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