黒部の名水と天のラッパ | 苦い世界で「命の水」を見つける

信仰と生活

聖書箇所:ヨハネの黙示録 8章1節~13節

【導入:第7章の歓喜から、嵐の前の静けさ】

皆さん、おはようございます。立山連峰が特別美しい朝ですね。

今日私たちは、聖書の「ヨハネの黙示録」という、世界の終わりを描いた、聖書の中でも最もドラマチックな書を共に開いています。
今日は8章に入りますが、その前に、前回開いた7章のクライマックスを少しだけ思い出してみましょう。
6章では、恐ろしい審判の光景が描かれていました。地震、暗闇、人々の恐怖。そして最後に、人々はこう叫びます。

「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれが立つことができようか。」(6章17節)

絶望の問いで6章は終わりました。
しかし7章で、場面は一変します。
四人の御使いが地の四隅に立ち、破壊の風を押さえています。そして別の御使いが叫びます。
「待て! 神のしもべたちの額に印を押すまでは。」
そして現れたのは、まばゆい光景でした。
あらゆる国、あらゆる言葉の人々が白い衣をまとい、神の御前で喜び歌っています。そこには涙も苦しみもありません。
こう約束されています。

「もはや飢えることも渇くこともなく、小羊が彼らを牧し、命の水の泉に導いてくださる。神は彼らの目から涙をことごとく拭い取ってくださる。」(7章16〜17節)

「命の水の泉」この言葉を聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか。
ここ黒部に住む私たちにとって、水は特別なものです。
立山連峰から流れ出る黒部川。日本一の高さを誇る黒部ダム。
黒部峡谷を流れる清冽な水。富山湾に注ぐ豊かな流れ。
私たちは、水の恵みの中で生きています。私たちは本当に、恵まれた土地に生きています。
7章には、天国での「命の水」が約束されていました。
ところが、今日の8章では話が急転します。その水が、汚染される光景が描かれるのです。命を与える水が、死をもたらす水に変わってしまう。これは私たち黒部に住む者にとって、決して他人事ではありません。


今日、この8章から三つのことを学びます。

  • 【第一】天の沈黙が語るもの
  • 【第二】天に届く、あなたの祈り
  • 【第三】四つのラッパと、現代の「苦よもぎ」

そして最後に、本当の「命の水」がどこにあるのかを発見します。どうか心を開いて、聴いてください。

【第一】天の沈黙が語るもの

では、8章1節を読みましょう。
“「小羊が第七の封印を解いた時、天に半時間ほど静けさがあった。」(8章1節)”
8章に入った瞬間、その大歓声がピタッと止まります。
それまで天では賛美の歌が絶え間なく響いていました。
ところが突然、すべてが静まり返る。
この「半時間ほどの静寂」。

ここ黒部で、完全な静寂を体験したことはありますか。真冬の早朝、雪が積もった日。町全体がシーンと静まり返る、あの感覚。音が全て雪に吸収されて、本当に静かになります。
あるいは、黒部峡谷の奥深く、トロッコ電車を降りて、少し歩いたところ。文明の音が一切聞こえない場所。そこで感じる静けさ。
天国が静まり返ったのは、これから始まる「警告のラッパ」があまりに重大だからです。神様は、私たちがその静寂の中で、自分の人生の歩みを振り返るのを待っておられるのです。

【第二】天に届く、あなたの祈り

続いて3-4節を見ましょう。
“「別の御使いが来て、金の香炉を持って祭壇のそばに立った。すると、たくさんの香が彼に与えられた。すべての聖徒たちの祈りに添えて、御座の前にある金の祭壇の上で献げるためであった。 香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」(3〜4節)”
ここで、私たちの祈りが天に届けられている場面が描かれています。しかも、どのように届けられているか——黄金の器に収められ、芳しい香と共に、神様の御座の前に献げられているのです。
ここに重要な真理があります:私たちの祈りは、歴史を動かす力を持っているのです。

私は先日、ある年配のご婦人と話をしました。彼女は娘さんのことで悩んでおられました。娘さんは関西に出て、もう20年以上帰ってこない。たまに電話しても、すぐ切られる。
彼女はこう言いました。
「毎朝、心の中で一生懸命、祈ってきたがいぜ。けど、何っちゃ変わらん。私の祈りなんて、結局どこにも届いとらんがやろねぇ……」と。
たしかに、私たちの目には何も変わっていないように見えるかもしれません。

けれど、今日の聖書の箇所を見てください。
天の半時間の静寂は、その『何っちゃ変わらん』と嘆くあなたの小さな祈りを、神様が黄金の大皿に受け止めて、じっくりと聴き届けるためのものだったのです。
黒部の地下を流れる伏流水が、目には見えなくても確かに大地を潤しているように、あなたの祈りも、神様のもとでは一滴もこぼれることなく、大切にされているのです。」

そして5節。ここが重要です。
“「それから御使いは、その香炉を取り、それを祭壇の火で満たしてから地に投げつけた。すると、雷鳴と声がとどろき、稲妻がひらめき、地震が起こった。」(5節)”
とあります。これは何を意味するでしょうか。

「神様は、私たちの涙を、ただ『かわいそうだね』と見ておられるだけではない」ということです。
神様は、この世界の不正や悪に対して、決して黙って見ておられないお方なのです。
私たちの祈りは、歴史を動かすスイッチなのです。

これから語られる激しい災害は、神を無視し、人を傷つける世界に対する、神の応答であり、愛ゆえの介入なのです。

【第三】四つのラッパと、現代の「苦よもぎ」

6節、七人の御使いが「ラッパ」を手に取ります。聖書においてラッパは「警告の合図」です。ここ富山でも大きな地震や大雨の際、防災無線が鳴り響きますね。あれと同じ役割です。
そして7節から、ラッパが一つずつ吹かれていきます。

第一のラッパ:地の三分の一が焼かれる
第二のラッパ:海の三分の一が血となる
第三のラッパ:川の三分の一が苦くなる
第四のラッパ:太陽と月と星の三分の一が暗くなる
このように、四つのラッパによって自然界に異変が起きます。まず注目すべきは「三分の一」という言葉の繰り返しです。
全てではなく、三分の一。これは裁きが段階的であり、まだ悔い改めの機会が残されていることを示しています。
神は一気に世界を滅ぼすことができます。しかし神は忍耐深く、何度も警告を発してくださいます。まるで親が子どもに何度も「危ないよ」と注意するように。
では、詳しく見ていきましょう。
第一・第二のラッパ: 地上の緑が焼かれ、海が血のように赤くなり、生き物や船が失われます。
そして第三のラッパ。ここが今日の核心です。10節と11節を読みます。

“「第三の御使いがラッパを吹いた。すると、天から、たいまつのように燃えている大きな星が落ちて来て、川の三分の一とその水源の上に落ちた。
この星の名は「苦よもぎ」と呼ばれ、水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。」”
川の汚染。水源の汚染。——水の都である黒部に住む私たちにとって、これは非常にショッキングな内容です。

黒部川の水は、立山の雪解け水から始まります。標高3,000メートルの純粋な雪が溶けて川となり、私たちのもとに届く。その水で米を作り、その水で料理をし、その水を飲んで生きています。

・心の「水源」が毒される時代

聖書において「水」は、「命」と「真理」の象徴です。
現代における『苦よもぎ』とは何でしょうか。物理的な水の汚染だけではないかもしれません。私たちの心を、魂を汚染するもの——嘘や悪意、憎しみ、虚無感。そういったものも、一種の『苦よもぎ』ではないでしょうか。
私たちの地域社会を見てください。水はきれいかもしれません。しかし、私たちの心を満たしている「情報」はどうでしょうか。

ネット上の誹謗中傷、隣人への妬み、根拠のない噂話。
一見、澄んだ水のように見えるスマホの画面から、毎日大量の「苦い毒」を飲み込んでいませんか?
その毒水によって、心が苦くなり、感謝を忘れ、生きる希望を失っている人が、この黒部にもたくさんいるのではないでしょうか。
環境汚染も怖いですが、もっと怖いのは、私たちの魂の「水源」が毒されることです。
「苦よもぎ」の時代。それは、人々が何を信じていいか分からなくなり、互いに疑心暗鬼になる時代の到来です。

・第四のラッパと「三分の一」の意味

12節、「第四の御使いがラッパを吹いた。すると太陽の三分の一と、月の三分の一、また星の三分の一が打たれたので、それらの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、夜も同じようになった。」

このように太陽、月、星の三分の一が打たれ、光の三分の一が失われます。
ここまでで重要なことは、被害がすべて「3分の1」に留まっているという点です。
もしこれが完全な「滅び」なら、すべてが消え去るはずです。しかし、神様はあえて「3分の1」に留められました。なぜか。それは、「まだ引き返せる。手遅れになる前に気づきなさい」という、愛のアラート(警報)なのです。

13節、一羽の鷲(わし)が「わざわいだ、わざわいだ」と叫びます。これは脅しではありません。崖っぷちで遊んでいる子供に、「危ない、戻ってこい!」と叫ぶ親の愛の叫びです。

この世界に「苦よもぎ」のような苦しみをもたらしたのは神様ではなく、神様を忘れて歩んできた私たち人間なのです。

・【福音】苦い水を飲み干してくださった方

皆さん、ここまで聞いて、不安になったかもしれません。
「じゃあ、私たちはどうすればいいんですか」と。

答えは、実は7章の17節にありました。覚えていますか。

「御座の中央におられる小羊が彼らを牧し、命の水の泉に導いてくださる」(7章17節)

この小羊とは誰か。イエス・キリストです。

黙示録8章で、汚染された水の話が語られました。
でも聖書は、決して汚染されない、永遠の命の水があると約束しています。
そして、その苦い水を自ら飲み干してくださったお方こそ、十字架にかかられたイエス・キリストです。

イエスは言われました。

「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネの福音書4章14節)

黒部川の水は素晴らしい。でも、それだけでは魂の渇きは癒せません。
お金、成功、人間関係。それらも大切です。でも、それだけでは心の空虚は満たせません。
本当の命の水は、イエス・キリストにあります。

なぜイエスが「小羊」と呼ばれるのか。
それは、私たちの身代わりとなって犠牲になられたからです。
私たちには罪があります。神の前に正しいと言える人は、一人もいません。
だから本来、私たちは裁きを受けるべきです。
でもイエスが、その裁きを引き受けてくださった。
十字架で、私たちの代わりに死んでくださった。
だから聖書は言います。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネ4章9節)

と。それが聖書の福音です。

【まとめと招き】苦い水を「甘い水」に変えるお方

今日、黙示録8章の「苦よもぎ」を通して、三つのことを共に見てきました。
① 神の裁きの真剣さ——天の沈黙が示す、神の深い配慮
② 今すでに心と社会に広がる「苦よもぎ」の現実
③ そして、イエス・キリストによる救い——命の水の泉

もしかすると、今まさに、心の中に「苦よもぎ」を抱えている方がおられるかもしれません。
人には言えない苦さ、ゆるせない思い、消えない後悔、空しさ。
あるいは、「自分は神なんて信じてこなかった」「好き勝手に生きてきた」と感じる方もおられるでしょう。
でも絶望する必要はありません。なぜなら、その先に希望があるからです。イエスという、命の水の泉があるからです。
黙示録の最後、21〜22章で、こう約束されています。

「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない」(21章4節)

「都の中央を流れる命の水の川が、水晶のように輝いて、神と小羊の御座から流れ出ていた」(22章1節)

これが私たちの希望です。黒部川よりも清く、ダムよりも豊かな、永遠の命の水です。決して汚染されることのない、神の川です。

神は、あなたが“苦よもぎ”の中で滅びることを願ってはおられません。
あなたが、真実を知り、イエス・キリストを通して、赦しと新しいいのちを受け取ることを願っておられます。
もし今日、「私は、この神を知りたい。イエス・キリストを信じて生きることを始めたい」と思わされるなら、どうか心の中で、シンプルにこう祈ってみてください。

「神さま。私は、あなたを無視して生きてきました。
私の内にある苦さと罪を、あなたの前に認めます。
イエス・キリストが、私の罪のために十字架で死に、復活されたことを信じます。
どうか私を赦し、あなたのいのちの水で、私を新しくしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」
この祈りをささやく人を、神は退けられません。
むしろ、喜んで受け入れ、その人生に新しいスタートを与えてくださいます。

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