クリスマスの「その後」を知っていますか?祭りの終わりとイエスの成長【ルカ2章21〜52節】

信仰と生活

12月25日が過ぎ、街のイルミネーションはお正月の飾りに変わりました。祭りの高揚感が去ったあと、私たちは「日常」に戻ります。しかし、聖書のクリスマスの物語は、馬小屋で終わりません。

今日の箇所には、イエス様の生後8日目、40日目、そして12歳の姿が記されています。ここには、非日常の奇跡(天使や星)ではなく、律法を守り、神殿に通い、家族と共に生きる「日常の中のイエス様」がおられます。

クリスマス(誕生)はゴールではなく、スタートでした。今日は、幼子イエスを取り巻く人々の姿と、成長されるイエスご自身の姿から、私たちがこの年末、どのように「救い」を受け止め、新しい年へ向かうべきかを聴きましょう。

AKIRA
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律法の下にくだられた救い主(21-24節)

21節を見てください。「8日が満ちて、割礼を施す時」とあります。
生まれたばかりの赤ちゃんにとって、これは人生で初めて味わう「痛み」です。そして流される「血」です。神の御子であるイエス様が、生まれてわずか8日目に、イスラエルの契約のしるしである割礼を受け、ご自分の体に傷を負われたのです。

なぜでしょうか?
神である方が、なぜそのようなことをする必要があったのでしょうか。
パウロは後にこう言いました。

「時が満ちて、神はご自分の御子を遣わし、律法の下にある者をあがない出すために、律法の下に置かれました」(ガラテヤ4:4-5)。

イエス様は、特別扱いを求めませんでした。私たち人間と同じ立場、律法に縛られた立場にあえて降りてこられ、私たちの義務と重荷をすべて背負う歩みを、この生後8日目から始められたのです。

ポイント1:その名は「イエス」

そして、この時に初めて公に「イエス(ヘブライ語「ヨシュア יהושע 」=(主は救い)」という名が付けられました。
受胎告知の時に天使ガブリエルから命じられた名前です。
この名前には、「民を罪から救う」という使命が込められています。
最初の血が流された割礼の日に、この「救い主」という名が宣言されたことは象徴的です。
イエス様のご生涯は、ベツレヘムの飼葉桶から始まり、
ゴルゴタの十字架へと続く、徹底した「へりくだりと犠牲」の道だからです。

ポイント2:貧しい夫婦の捧げ物

さらに、22節から24節には「宮詣で(奉献)」の様子が記されています。
ここで注目していただきたいのは、マリアとヨセフが神殿に捧げたものです。
24節をご覧ください。「山鳩のつがい、または、若鳩二羽」とあります。
レビ記の規定(12章)によれば、本来、
子どもが生まれた感謝として捧げるべきは「一歳の小羊」でした。
しかし、もしその経済的余裕がない場合
(聖書は「もし彼女に羊を買う余裕がなければ、」と表現しています)、
特例として「鳩二羽」でもよいとされていました。

これは何を意味しているでしょうか?
イエス様を育てた地上の家庭は、
神殿に羊一匹を捧げる余裕さえない、貧しい家庭だったということです。
ここに、クリスマスの驚くべき逆説(パラドックス)があります。
イエス様ご自身は、後に洗礼者ヨハネが「世の罪を取り除く神の小羊」と呼んだ、
真の「小羊」です。全宇宙の王であり、すべての富を持っておられる方です。
しかし、その王が神殿に来られた時、
両親は貧しさゆえに羊を買えず、小さな鳩を捧げるしかなかったのです。

適用:私たちのための貧しさ

兄弟姉妹の皆さん。もしイエス様が王宮に生まれ、黄金で飾られた神殿に最上級の羊を捧げていたなら、私たちは「神様は遠い存在だ」「お金持ちや立派な人の神様だ」と感じたかもしれません。
しかし、
主は「鳩の捧げ物」しかできない家庭を選ばれました。それは、この世で貧しい思いをしている人、小さくされている人、誰一人としてご自分の恵みから漏れることがないためです。

この21節から24節の短い記述の中に、「私たちのために律法の下に入り、痛み(割礼)を負われたイエス様」と、「私たちのために貧しくなり、低きに下られたイエス様」の姿がはっきりと刻まれています。この徹底した謙遜こそが、私たちが信じる救い主の姿なのです。
この後、シメオンとアンナが登場しますが、彼らが待ち望んでいたのは、こうした「貧しく、へりくだったメシア」の姿を見抜くことでした。
豪華な行列ではなく、鳩を携えた貧しい夫婦の中に救い主を見出すには、霊的な目が必要だったのです。

シメオンとアンナの賛美(25-40節)

エルサレム神殿には、二人の老人がいました。シメオンとアンナです。
彼らは特別な権力者ではなく、来る日も来る日も神殿で祈り、救いを待ち望んでいた人々です。
彼らは、貧しい夫婦(マリアとヨセフ)が抱いている小さな赤ちゃんを見て、それが「救い主」だと即座に見抜きました。

なぜ彼らには分かったのでしょうか?
それは彼らが聖霊と共にあり、神の約束を信じて「待ち望んでいた」からです。
私たちもまた、派手な奇跡の中だけでなく、平凡な日常の中に、あるいは弱く小さく見えるものの中に、キリストの臨在を見出す「信仰の目」が必要です。

シメオンの賛歌(29-32節)「ヌンク・ディミティス」

「主よ、今こそあなたは…去らせてくださいます」という言葉は、ラテン語で「ヌンク・ディミティス(今や去らしめ給う)」と呼ばれます。
ここで重要なのは、救いが「異邦人を照らす啓示の光」として宣言されている点です(
イザヤ42:6, 49:6の国々(ヘブル語ゴイム גויים)の反映)。ルカ特有の普遍的救済(ユニバーサリズム)のテーマが強調されています。

さらに付け加えるなら、この福音書を書いたルカは、後に「使徒の働き」の中で、この福音が世界中に広がっていく様子も記録しました。

シメオンの預言(34-35節)

同時にシメオンは「剣が心を刺し貫く」と語りました。
イエス様に従うことは、喜びだけではなく、自分の古い心が砕かれる痛みも伴います。
しかし、それこそが真の救いへの道です。

女預言者アンナ(36-37節)

シメオンの賛美の歌声が響いたその時、もう一人の人物が近づいてきました。
女預言者アンナです。
アンナ(Anna)の名前はヘブライ語の「ハンナ」と同じで、「恵み(Grace)」を意味します。
ルカは彼女のプロフィールを非常に詳しく記しています。
「アシェル族のファヌエルの娘」。
「アシェル族」というのは、かつて失われたイスラエルの十部族の一つです。歴史の中に埋もれ、忘れ去られたような部族の末裔が、ここに一人、しっかりと残されていたのです。
神様は決してご自分の民を忘れてはおられない、ということがこの一行からも分かります。

ポイント1:喪失を献身に変える

アンナの人生は、人間的な目で見れば「悲劇」と言えるかもしれません。彼女は結婚してわずか7年で夫を亡くしました。当時の社会で、若くして「やもめ」になることは、経済的な保証を失い、社会的な立場も弱くなることを意味しました。頼れるものが何もない、深い孤独と不安です。

しかし、彼女はその孤独を「絶望」に変えませんでした。彼女はそれを「神への全き献身」へと変えたのです。聖書は言います。「彼女は宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた」と。「八十四歳になっていた(あるいは、やもめ暮らしが84年続いていた)」という長い歳月の間、彼女は何をしていたのでしょうか。世をすねていたのではありません。神殿の片隅で、自分の身の上を嘆く代わりに、来る日も来る日も、イスラエルの救いのためにとりなし祈っていたのです。彼女の生活の場は神殿でした。神の御前にとどまり続けることこそが、彼女の生きがいであり、仕事でした。

ポイント2:祈りの人は「目」が良い

皆さん、想像してみてください。神殿には毎日、何百、何千という人々が出入りしています。
裕福な商人、立派な祭司、着飾った巡礼者たち。その雑踏の中で、アンナは、貧しい身なりの夫婦が抱いている小さな赤ちゃんに目を留めました。

なぜ、アンナには分かったのでしょうか?
なぜ、その子が救い主だと気づけたのでしょうか?
それは、彼女の目が「祈りによって研ぎ澄まされていた」からです。何十年もの間、断食と祈りによって神様と交わり続けてきた彼女には、神様のなさることが直感的に分かったのです。

「祈ること」は、決して消極的なことではありません。祈りは、神の救いに備えるための、最も積極的な「働き」です。アンナが宮を離れずに祈り続けたその積み重ねが、決定的な瞬間にキリストを見出す力となりました。世間のきらびやかさではなく、真実を見抜く霊的な目が、長い「待ち望み」の生活の中で養われていたのです。

シメオンは男性です。アンナは女性です。シメオンは「主の霊感」によって導かれ、アンナは「断食と祈り(修練)」によって導かれたとも読めます。

この二人は高齢者の信仰の模範です。彼らの目は、華やかな宮殿ではなく、貧しい夫婦に抱かれた幼子の中に神の栄光を見抜きました。律法では「二人の証人」によって事柄が確定します。神は男女二人の高齢者を証人として立て、イエスの救い主としての正当性を証しされました。

38節: 彼女はただ見て満足しただけでなく、「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った」とあります。彼女は、ルカの福音書における最初の女性宣教者(エバンジェリスト)の一人と言えます。高齢者のアクティブな信仰の励ましになります。

少年イエスの「迷子」事件(41-50節)

時は流れ、イエス様は12歳になります。過越の祭りの後、イエス様は神殿に残っておられました。ユダヤ教では13歳で「バル・ミツバ(律法の子)」となり大人の仲間入りをしますが、その準備期間としての12歳です。

心配して探す両親に対する言葉:”「私が自分の父の家にいるのは当然ではありませんか”(49節)」。
これは、単なる迷子事件ではありません。反抗期の言葉でもありません、イエスの「私は誰の子か(神の子)」というアイデンティティの宣言でした。イエス様にとって、この地上で最も優先すべき場所は、神との交わりの場(父の家)だったのです。

適用と黙想

年末の忙しさの中で、私たちはヨセフやマリアのように「イエス様を見失って」いないでしょうか?
様々な用事に心を奪われ、イエス様を置き去りにしていないでしょうか。
イエス様は「父の家(礼拝、祈り、御言葉)」におられます。新しい年を迎えるにあたり、私たちの生活の優先順位を「父の家」に置き直しましょう。

マリアの反応(51-52節)

彼女は息子の言葉を完全には理解できませんでしたが、”「これらのことをみな、心に留めておいた。」”と。前回学んだ19節にもあるように、ここも言葉はレーマです。心に納めているのです。すぐに答えが出なくても、神の時を待つ信頼の姿勢です。イエスの成長: そしてイエス様は、ナザレに帰り、両親に仕えられました。
52節には”「知恵が増し、背たけも伸び、神と人とに愛された」”とあります。神の子であっても、人間としての時間を省略せず、誠実に成長のプロセスを歩まれたのです。

適用

信仰生活には「わからないこと」や「待つ時間」があります。その時、性急に答えを出そうとせず、マリアのように御言葉(レーマ)を心に納めましょう。その蓄積が、私たちの霊的な背たけを伸ばします。

結び

新しい年への招き
クリスマスの飾りが片付けられ、いつもの日常が戻ってきました。しかし、私たちの信仰の旅は、ここからが本当の始まりです。

今日、私たちは老人シメオンとアンナの姿を見ました。彼らは、きらびやかな宮殿ではなく、貧しさの中に、弱さの中に、救い主の光を見出しました。それは、彼らが「待ち望む人」であり、「祈りの人」であったからです。

また、私たちは12歳の少年イエスの姿を見ました。「私は父の家にいる」。その言葉通り、主は神との交わりを何よりも大切にされ、知恵と背たけを伸ばされました。

2025年が終わろうとしている今、静かにご自身の心に問いかけてみましょう。私たちはこの一年、忙しさの中でイエス様を置き去りにしてこなかったでしょうか。日常の中に、主の臨在を見出す目を持っていたでしょうか。マリアがすべてのことを「心に納めた」ように、今、語られた御言葉を私たちの心に納めましょう。
そして、来るべき新しい年、私たちもキリストにあって成長することを願い、祈りを合わせたいと思います。

祈り(クリスマスの恵みを感謝し、来たるべき年に向けて、主にある成長と献身を願う祈り)

天の父なる神様。御名を崇め、心からの賛美をお捧げいたします。私たちのために御子を世に遣わし、私たちと同じ肉体を取り、律法の下にまで降りてくださった主のへりくだりを感謝いたします。主は、痛みを知るお方として、また貧しさを知るお方として、私たちのただ中に住んでくださいました。

主よ、私たちはクリスマスの出来事を祝いましたが、祭りの後はすぐに日常の忙しさに追われ、あなたの臨在を見失ってしまう弱い者たちです。どうか、今日の御言葉を通して、私たちの霊の目を開いてください。

シメオンのように、日々の生活の中にあなたの救いを見出すことができますように。
アンナのように、悲しみや孤独を感じる時も、そこを祈りの場と変えていくことができますように。
たとえすぐに答えが見えない時でも、マリアのように御言葉を心に納め、あなたの時を信頼して待つことができますように。

そして主よ、少年イエスが「父の家」を何よりも愛されたように、私たちも来る新しい一年、あなたを礼拝することを生活の中心に据えることができますように。どうか私たち一人ひとりを祝福し、私たちの信仰の背たけを伸ばし、知恵を増し加え、神と人とに愛される者へと成長させてください。

2025年の歩みを守ってくださった恵みに感謝し、期待をもって新しい年へと向かいます。私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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