創世記20章の解説|アブラハムとアビメレクの出来事から学ぶ真実

アブラハム アビメレク 画像 創世記シリーズ

はじめに

信仰の父と呼ばれるアブラハム。彼の物語を読んでいると、「立派な信仰者」というイメージを抱く方も多いのではないでしょうか。しかし創世記20章に描かれているのは、そのイメージとはやや異なる、人間らしい弱さを抱えたアブラハムの姿です。
実はこの章でアブラハムが取った行動は、以前エジプトで見せた行動(創世記12章)とほぼ同じものです。しかも今回起きた場所は、神が約束された子ども—イサク—が生まれる直前という、物語全体の中でも大切な場面でした。
信仰を持たない方にとっても、この章は「人はなぜ同じ過ちを繰り返すのか」「良心とは何によって支えられているのか」を考えさせられる内容になっています。そして信仰を持つ方にとっては、「自分の失敗によって神の計画が壊れてしまうのではないか」という不安に、静かな答えを与えてくれる箇所でもあります。
今回は創世記20章を丁寧に読み解いていきます。

背景―物語のどの位置にあるのか

創世記20章は、18章でアブラハムのもとに三人の客(主の使い)が訪れ、ソドムとゴモラの滅びが告げられた出来事の直後に置かれています。そして次の21章では、ついに約束の子イサクが誕生します。

つまり20章は、アブラハムの人生における最大級の祝福を目前にした場面で起きた出来事なのです。喜びの直前に、なぜこのような失敗が記録されているのか。この配置そのものに、聖書が伝えたいメッセージが隠れているように思われます。

あらすじ―ゲラルで起きたこと

アブラハムは南方のゲラルという地域に移り住みます。そこで彼は、以前エジプトで行ったのと同じように、妻サラのことを「私の妹です」と周囲に語りました。その地を治めていたアビメレク王は、サラを自分のもとに召し入れます。
ところがその夜、神はアビメレクの夢の中に現れ、「あなたは人妻を召し入れた。あなたは死ぬことになる」と告げます。アビメレクは驚き、自分には彼女が人妻であるとは知らされておらず、心に何の悪意もなく、手も汚していないと訴えます。

神はアビメレクに、その言い分が正しいことを認めます。神自身が、アビメレクが罪を犯さないよう抑えていたのだと語り、すぐにサラを夫のもとへ返すように命じます。返さなければ、アビメレクとその家族全員が死ぬことになるとも告げられました。
翌朝、アビメレクは家臣たちを集めてすべてを話し、彼らは深く恐れました。そしてアビメレクはアブラハムを呼び出し、「私たちに何をしたのか。私が何をあなたに対して罪を犯したというのか」と問い詰めます。

アブラハムは、「この土地には神を恐れる心などないだろうと思い、命を守るためにこう言った」と説明します。さらに、サラは実際に自分の父を同じくする(母は異なる)半妹であり、正式に妻としたのだと付け加えます。実はこの”妹だと言う”やり方は、二人が旅先で用いていた一種の習慣だったことも、アブラハム自身の言葉からうかがえます。
アビメレクはアブラハムに羊、牛、奴隷を与え、サラを返し、自分の地に自由に住むことを許可します。そしてサラには銀千枚を与え、これによって彼女の名誉が周囲の人々の前で守られるようにしました。最後にアブラハムが神に祈ると、それまで子を宿すことができなくなっていたアビメレクの家—サラのことが原因で神が閉じておられた—の女性たちの体が元通りにされました。

なぜアブラハムはまた同じ噓をついたのか

ここで多くの読者が抱く疑問は、「なぜアブラハムは、以前エジプトで同じ噓をついて痛い目にあったにもかかわらず、また同じことを繰り返したのか」という点です。

考えられる理由の一つは、恐れという感情が、経験や信仰の成熟によって簡単には消えないという事実です。アブラハムは18章で神と顔を合わせて語り合うほどの、深い信頼関係を築いていました。それでもなお、新しい土地に足を踏み入れたとき、”知らない場所への恐れ”が再び顔を出したのです。
これは信仰を持たない方にとっても、リアルに感じられる部分かもしれません。人は一度成長したからといって、同じ種類の弱さから完全に自由になるわけではありません。環境が変わると、以前克服したはずの不安が再び現れることは、誰にでも起こり得ることです。

サラの年齢問題—見過ごせない疑問

この章を読むときによく話題になるのが、「サラはこの時点でかなりの高齢だったはずなのに、なぜアビメレクは彼女を召し入れたのか」という疑問です。前後の章から推定すると、サラはこの出来事の頃、90歳前後だったと考えられます。

この点については聖書学者の間でも複数の見方があります。一つは、アビメレクの目的が個人的な魅力よりも、豊かな遊牧氏族の長であったアブラハムとの政略的なつながりにあったという見方です。もう一つは、イサク誕生という奇跡を目前にして、サラの身体に何らかの若返りが伴っていた可能性を指摘する見方です(新約聖書のヘブル人への手紙11章で、サラが年齢を超えて妊娠する力を受けたと記されていることと関連づける解釈です)。また、出来事の記録順序が必ずしも厳密な時系列ではない可能性を指摘する立場もあります。

どの説が正しいかを断定することは難しく、この記事でも一つの答えに絞ることは避けたいと思います。ただ、聖書がこうした疑問をそのまま残していること自体、都合よく美化された物語ではなく、率直な記録であることを示していると言えるのではないでしょうか。

アビメレクの”心の潔白” 信仰がなくても働く良心

この章でもう一つ注目したいのは、アビメレクという人物の描かれ方です。彼はアブラハムやサラのような、神と契約関係にある人物ではありません。いわば”外部の人”です。それでも彼は、神との対話の中で「自分は心の潔白と手の清さによってこれを行った」と主張し、神もそれを認めています。
この場面は、信仰を持たない人であっても、良心や倫理観に基づいて誠実に行動できるということを示しています。同時に、神はアビメレクに対し、「あなたが罪を犯さないように、わたし自身が抑えていた」とも語っています。つまり彼の潔白さは、彼自身の力だけによるものではなく、神の見えない配慮によっても支えられていたのです。
これは信仰を持たない方への一つの視点になるかもしれません。人が良心的に生きられるのは、決してその人だけの努力の結果ではなく、目に見えない配慮に支えられている部分があるという考え方です。そして信仰者にとっては、神が契約の民だけでなく、すべての人に関わっておられるという広い視野を与えてくれる箇所でもあります。

銀千枚と「覆い」の意味

アビメレクがサラに銀千枚を与えた場面も、単なる賠償金以上の意味を持っています。この行為には、周囲の人々の疑いの目からサラを守り、彼女の名誉を回復させるという意味合いが込められていました。

誤解や噂によって傷つけられた名誉を、金銭や具体的な行動によって修復しようとするこの姿勢は、現代の私たちにも通じるものがあります。言葉だけの謝罪ではなく、相手の立場を実際に守る行動が伴っていた点は、覚えておきたいポイントです。

非信者の方へ

この章から受け取れるメッセージの一つは、「信仰を持つ人だからといって完璧ではない」という、ある種の安心感かもしれません。アブラハムは神との深い交わりを経験していたにもかかわらず、恐れによって同じ過ちを繰り返しました。宗教的な人物を欠点のない理想像として見る必要はなく、彼らもまた等身大の人間として弱さを抱えていたことを、聖書自身が記録しています。

また、良心や誠実さは信仰の有無にかかわらず尊いものであり、アビメレクの姿はそれを裏付けています。誠実に生きようとする姿勢そのものに価値があるという視点は、信仰の枠を超えて受け取れるものではないでしょうか。

信者の方へ

信仰を持つ方にとって、この章はもう一つの慰めを与えてくれます。アブラハムの失敗によって、神の約束—イサクの誕生—が損なわれることはありませんでした。神はご自身の計画を、人間の弱さによって覆されるようなものとして立てておられないのです。

同じ種類の失敗を繰り返してしまうとき、私たちは「もう自分は成長していないのではないか」と落ち込むことがあります。しかしこの章は、失敗そのものよりも、その後に神がどのように関わり続けてくださるかに目を向けさせてくれます。アブラハムの噓は責められましたが、彼自身は退けられませんでした。

現代の私たちへ

新しい環境、新しい関係、新しい立場に置かれたとき、以前は乗り越えたはずの不安や恐れが再び顔を出すことは、誰の人生にもあるのではないでしょうか。転職や引っ越し、新しい人間関係の始まりなど、状況が変わるたびに、自分を守るための小さな噓や取り繕いをしてしまう場面は少なくありません。

この章が教えてくれるのは、そうした弱さを持つこと自体が特別なことではなく、大切なのはその後、どのように向き合い、修復していくかという点です。

おわりに

創世記20章は、信仰の父とされるアブラハムの、決して美化されていない一面を描いた章です。しかしその弱さの記録の先には、人間の失敗を超えて計画を進められる神の姿があります。

次章である21章では、ついに約束の子イサクが誕生します。この章での出来事を経てもなお、神の約束は変わらず前へ進んでいく—そのことを心に留めながら、次の章へと読み進めていただければと思います。


※本記事の聖書引用は新改訳2017を基にした要約・パラフレーズです。

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