はじめに――祝福を手にしたヤコブが、なぜ逃げるのか
創世記27章で、ヤコブは父イサクを欺き、兄エサウが受けるはずだった祝福を受けました。
しかし、その直後にヤコブを待っていたのは、祝福に満ちた安定した生活ではありませんでした。
兄エサウはヤコブを憎み、殺そうとします。
そのためヤコブは家を離れ、母リベカの兄ラバンのもとへ逃げることになります。つまり、ヤコブは「祝福を受けた人」でありながら、現実には逃亡者になったのです。家を離れ、家族から離れ、これからどこへ行くのかも分からない。そんなヤコブが、創世記28章で神と出会います。
創世記28章の中心的なメッセージは、人生が崩れたように見える場所にも、神はおられる。ということです。そして、この章の最後には、神から受けた恵みに対してヤコブがどのように応答したのかが記されています。そこに「十分の一を献げる」というヤコブの誓願があります。この箇所から、私たち信仰者の献金についても考えてみましょう。

- 1.創世記28:1–9――ヤコブは家を出る
- 2.創世記28:10–12――石を枕にするヤコブ
- 3.創世記28:13–15――「わたしはあなたとともにいる」
- 4.創世記28:16–17――「主がここにおられるのに、私は知らなかった」
- 5.創世記28:18–19――ベテル、「神の家」
- 6.創世記28:20–22――ヤコブは十分の一を献げる
- 7.十一献金は「神から受けた恵みへの応答」
- 8.パウロが教える「福音を支える」という原則
- 9.ガラテヤ6:6――みことばを教える人と「良いものを分かち合う」
- 10.では、十一献金をどこに献げるのか
- 11.十一を分散させる前に、神の前で考える
- 12.献金は「教会にお金を渡す」ことではない
- 13.まず自分が属する教会を支える
- 14.創世記28章が教える本当の献金
- 15.まとめ――人生が崩れた場所にも神はおられる
1.創世記28:1–9――ヤコブは家を出る
イサクはヤコブを呼び、カナンの娘を妻に迎えるのではなく、母リベカの兄ラバンのところへ行くように命じます。ヤコブは父の言葉に従って旅立ちます。しかし、この旅には複雑な背景があります。ヤコブは、兄エサウとの関係が壊れたため、逃げるように家を出ているのです。27章でヤコブは、父から祝福を受けました。ところが、その祝福を手に入れるために、人を欺くという方法を選びました。
結果として、
- 兄との関係が壊れた
- 家族から離れることになった
- 故郷を離れなければならなくなった
- 一人で旅をすることになった
のです。
ここには重要な教訓があります。神の約束があることと、人生に困難がないことは同じではありません。ヤコブには神の約束がありました。しかし、その約束の中でも、彼は荒野を歩かなければなりませんでした。
2.創世記28:10–12――石を枕にするヤコブ
ヤコブはベエル・シェバを出発し、ハランへ向かいます。そして日が暮れたため、ある場所で一夜を過ごします。彼は石を取って、それを枕にして眠りました。これは、ヤコブの置かれている状況をよく表しています。少し前まで彼は父イサクの家にいました。しかし今は、石を枕にして一人で眠っています。家もありません。家族もいません。安心できる場所もありません。そんな夜、ヤコブは夢を見ます。地上から天に届くはしごがあり、その上を神の御使いたちが上り下りしています。そして、主がヤコブに語りかけられます。ここで注目したいのは、ヤコブが神を探していたから神が現れたのではないということです。ヤコブは逃げていました。神殿に向かっていたわけでもありません。礼拝のために旅をしていたわけでもありません。それでも神は、ヤコブのところへ来られました。これは聖書に繰り返し現れる恵みの姿です。人間が神を見つける前に、神が人間に近づいてくださる。

3.創世記28:13–15――「わたしはあなたとともにいる」
神はヤコブに語りかけます。神は、アブラハムとイサクに与えた約束をヤコブにも与えます。この土地を与える。子孫を増やす。そして、その子孫を通して地上のすべての民族が祝福される。さらに神は、ヤコブに大切な約束を与えます。「わたしはあなたとともにいる。」これが創世記28章の中心です。ヤコブは家を失いました。しかし、神はヤコブを失っていませんでした。ヤコブは家族から離れました。しかし、神はヤコブから離れていませんでした。ヤコブは一人で旅をしていました。しかし、神がともにおられました。さらに神は、ヤコブを守り、再びこの土地へ連れ戻すと約束されます。ここで重要なのは、ヤコブの人生を支えるのは、ヤコブ自身の知恵や策略ではなく、神の約束であるということです。

4.創世記28:16–17――「主がここにおられるのに、私は知らなかった」
朝になり、ヤコブは目を覚まします。そして、”「まことに主がこの所におられる。それなのに、私は知らなかった。」”という意味の言葉を語ります。神は、ヤコブが目を覚ましたときに初めて、その場所へ来られたのではありません。神は最初からそこにおられました。ただ、ヤコブが知らなかったのです。私たちの人生にも、同じことがあるのではないでしょうか。順調なときには、「神がともにいてくださる」と感じることができます。
しかし、
- 仕事がうまくいかない
- 人間関係が壊れる
- 家族の問題が起こる
- 将来が見えない
- 自分の失敗に苦しむ
- 一人ぼっちになったように感じる
そんなとき、「神はどこにいるのだろう」と思ってしまいます。しかし、創世記28章は教えます。神がいないのではなく、私たちが神の臨在に気づいていないことがある。ヤコブが神に出会ったのは、成功の場所ではありませんでした。逃亡の途中でした。石を枕にした荒野でした。だからこそ、私たちも人生の荒野を簡単に「神がいない場所」と決めつけてはいけません。そこが、神との出会いの場所になることがあるからです。


5.創世記28:18–19――ベテル、「神の家」
ヤコブは、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、その場所を「ベテル」と呼びます。ベテルとは、「神の家」という意味です。もともとは「ルズ」と呼ばれていた場所でした。しかしヤコブにとって、その場所はもう単なる土地ではありません。そこは、神と出会った場所になりました。同じ場所でも、神との出会いによって意味が変わります。荒野がベテルになる。孤独の場所が、神の臨在を覚える場所になる。人生の失敗と思っていた場所が、「私は、あの場所で神に出会った」と言える場所になる。これがベテルの意味です。

6.創世記28:20–22――ヤコブは十分の一を献げる
そして創世記28章の最後で、ヤコブは神に誓願します。神がともにいてくださり、旅を守り、食べる物や着る物を与え、無事に父の家へ帰らせてくださるなら、”「すべてあなたが私に与えられる物の十分の一を、私は必ずあなたに献げます。」”と誓います。ここから、私たちの献金について考えてみましょう。ただし、ここで注意したいことがあります。創世記28:22を、「十分の一を献げれば、神がその分だけ祝福してくださる」という意味にしてはいけません。献金は神との取引ではありません。「これだけ献げるから、神様、これだけください」というものではありません。神が先にヤコブへ、「わたしはあなたとともにいる」と約束されました。その神の恵みに対して、ヤコブが応答したのです。したがって、献金の出発点は、「神から何かを得るため」ではなく、「神から受けた恵みに応答するため」と考えることができます。

7.十一献金は「神から受けた恵みへの応答」
私たちは、自分の給料を見ると、「これは自分が働いて得たものだ」と思います。しかし信仰者は、そのさらに先を見ることができます。働く力を与えてくださったのは誰でしょうか。仕事をする機会を与えてくださったのは誰でしょうか。今日まで生かしてくださったのは誰でしょうか。私たちが持っているものの源は、最終的には神です。だから献金とは、「私のものを神様に少し渡す」ということではありません。むしろ、「主よ、私が持っているものも、あなたから与えられたものです」と認めることです。十一献金の本質は、単なる数字ではありません。神を第一にするという信仰です。
8.パウロが教える「福音を支える」という原則
では、新約聖書では、教会や福音の働きを支えることについて何と教えているでしょうか。使徒パウロは第一コリント9章13–14節で、祭壇に仕える者が祭壇からのものを受けるという原則を示したうえで、”「主も同じように、福音を宣べ伝える者たちが福音によって生活を得るように定められました。」”と教えています。これは、福音を宣べ伝える働きを支えるという重要な原則です。福音を伝える人が、その働きを通して生活を支えられることを、パウロは否定していません。むしろ、主がそのように定められたと教えています。つまり教会への献金は、単なる建物の維持費ではありません。福音の働きを支えることなのです。礼拝をする場所。伝道活動。地域への奉仕。宣教。みことばを教える働き。牧会。これらの働きには、現実的な支えが必要です。だから献金によって私たちも、福音宣教の働きをともに担うことができます。
9.ガラテヤ6:6――みことばを教える人と「良いものを分かち合う」
さらにパウロは、ガラテヤ6章6節で、”「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分かち合いなさい。」”と教えています。ここには、みことばを教える人と、教えられる人との関係についての大切な原則があります。私たちは教会で、みことばを聞きます。聖書を教えてもらいます。祈ってもらいます。信仰について学びます。苦しいときに励まされます。福音を聞きます。つまり、教会から霊的な恵みを受けています。だからこそ、パウロは「すべての良いものを分かち合いなさい」と教えます。これは、「自分は教会から霊的なものを受ける。しかし、教会を支えることは他の人に任せる」という考え方とは反対です。むしろ、「私もこのみことばの働きを支える一人になろう」という姿勢です。
10.では、十一献金をどこに献げるのか
現代では、献金する場所がたくさんあります。慈善事業。福祉団体。宣教団体。他の教会。災害支援。どれも尊い働きです。困っている人を助けることも、他の教会を支えることも、宣教団体を支援することも大切です。しかし、ここで一度考えてみたいことがあります。あなたが普段礼拝している教会を、あなた自身の献金によって支えているでしょうか。自分が毎週そこで礼拝している。そこでみことばを聞いている。牧師からみことばを教えられている。祈ってもらっている。兄弟姉妹と交わっている。その教会を通して福音が伝えられている。そのような教会を、他の人の献金だけで支えてもらってはいないでしょうか。もちろん、聖書は現代の「所属教会への十一献金」という制度を直接規定しているわけではありません。ですから、「十一は必ず所属教会だけに献げなければならない」と断定することはできません。しかし、第一コリント9:13–14とガラテヤ6:6が教える原則から考えるなら、自分がみことばによって養われ、牧会を受け、礼拝している教会を、自分自身も献金によって支えるということには、十分な意味があります。


11.十一を分散させる前に、神の前で考える
もし十一献金を、慈善事業所、宣教団体、他の教会などに分散して献げているなら、そのこと自体をすぐに「間違い」と決めつける必要はありません。しかし、一度、神の前で問いかけてみてください。「主よ、私は自分が属している教会を、私自身の献金によって支えているでしょうか。」他の働きを支援することは尊いことです。しかし、自分の教会への献金を後回しにして、十一を外部の働きにだけ分散させているなら、一度、自分の献金のあり方を考えてみる必要があります。なぜなら、私たちはその教会で、みことばを受け、祈られ、牧会され、信仰生活を送っているからです。だから、「私は、この教会を支える一人です」という思いを持つことが大切です。
12.献金は「教会にお金を渡す」ことではない
献金を、「教会にお金を取られる」と考えるなら、献金は苦痛になります。しかし、「神の働きを私もともに担う」と考えるなら、意味が変わります。牧師がみことばを語る。教会が礼拝を守る。教会が伝道する。地域に仕える。福音を伝える。その働きを、私たちも献金によって支える。つまり献金とは、福音宣教に参加する一つの方法なのです。
13.まず自分が属する教会を支える
だから、十一献金を実践している信仰者には、まず自分が属している教会を支えるということをお勧めします。これは、「他の教会に献金してはいけない」という意味ではありません。慈善事業を支えてはいけない、という意味でもありません。宣教団体に献金してはいけない、という意味でもありません。そうではなく、まず、自分が霊的に養われている教会を支える。そのうえで、神がさらに与えてくださるなら、外へ向かって祝福を分かち合っていく。という考え方です。教会を支えることは、単なる経費負担ではありません。それは、「私も福音の働きを担っています」という信仰の表明です。
14.創世記28章が教える本当の献金
創世記28章を最後まで読むと、献金の本質が見えてきます。ヤコブは、まず神から約束を受けました。「わたしはあなたとともにいる。」そして、その恵みに応答して、「十分の一を献げます」と誓いました。つまり、神の恵みが先で、献金はその応答です。これが大切です。私たちも、救いを受けた。みことばを受けた。教会を与えられた。信仰の仲間を与えられた。祈ってくれる人を与えられた。今日まで守られてきた。だから、「主よ、私の持っているものは、あなたから与えられたものです」と告白する。その感謝を、献金という具体的な形で表すのです。

15.まとめ――人生が崩れた場所にも神はおられる
創世記28章は、単なる「ヤコブのはしご」の物語ではありません。ヤコブは、自分の力で祝福をつかもうとしました。しかし、その結果、家を離れ、兄から逃げ、荒野で一人になりました。その場所で、神がヤコブに語られました。「わたしはあなたとともにいる。」ヤコブが神に出会ったのは、人生が順調な場所ではありません。人生が崩れたように見えた場所でした。だから、私たちも覚えておきたいのです。あなたが「何もない」と思っている場所にも、神はおられるかもしれません。あなたが「失敗した」と思っている場所にも、神はおられるかもしれません。あなたが「もう終わった」と思っている場所にも、神は働いておられるかもしれません。そして神の恵みを知ったとき、私たちはその恵みに応答して生きるようになります。
その一つが献金です。献金は神との取引ではありません。神から受けた恵みへの感謝です。献金は単なる教会の会費ではありません。福音の働きをともに担うことです。そして、十一献金を実践するのであれば、まず、自分が属している教会を支える。そこでみことばを受け、礼拝し、祈られ、牧会されているなら、その教会の福音の働きを自分自身も支えていく。そして神がさらに与えてくださるなら、他の教会、宣教団体、慈善事業などへも喜んで分かち合っていく。そのようにして、私たちの献金を通して、神の祝福をさらに外へ流していくことができます。最後に、創世記28章を読んだ私たち自身に問いかけてみましょう。私は、神から受けたものを、誰のために、何のために使っているだろうか。そして、「主よ、私の持っているものは、あなたから与えられたものです。私の人生も、時間も、能力も、財も、あなたを第一にして用いさせてください。」と祈りたいと思います。ヤコブが荒野で神に出会った場所を「ベテル」と呼んだように、私たちの人生にも、後になって振り返ったとき、「あの場所で、私は神がともにいてくださることを知った」と言える場所が与えられるのかもしれません。そして、その神の恵みを受けた者として、受けるだけではなく、献げる。祝福されるだけではなく、祝福する。
教えられるだけではなく、福音の働きをともに支える。そんな信仰者として歩んでいきたいと思います。

参考聖書箇所
- 創世記27章――ヤコブがイサクの祝福を受ける
- 創世記28:10–22――ヤコブとベテル
- 創世記28:15――「わたしはあなたとともにいる」
- 創世記28:22――ヤコブの十分の一の誓願
- Ⅰコリント9:13–14――福音を宣べ伝える者を支える原則
- ガラテヤ6:6――みことばを教える者と「すべての良いものを分かち合う」
- Ⅱコリント9:7――献金は強制ではなく、心から献げるもの
- ヨハネ1:51――創世記28章との関連を考えることができる箇所
聖書引用:新改訳2017




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