90歳で出産し、100歳で父親になる。
普通に考えれば、ありえない話です。 けれども創世記21章には、これが実際に起きた出来事として記されています。
しかもこの章は、単なる「奇跡の出産物語」では終わりません。 この直後、家族が引き裂かれます。ひとりの子どもが、母親とともに荒野に送り出されるのです。
なぜ、こんな結末になったのでしょうか。 そしてこの物語は、令和のいまを生きる私たちーー特に、なかなか結果が出ないことに疲れている人、家族や職場から「見捨てられた」と感じたことがある人にも、驚くほど重なる部分があります。
今回は、創世記21章を「25年越しの約束」「家族の追放」「他人との和解」という3つの場面に分けて、じっくり見ていきます。
この記事の結論
先に、お伝えしたいことを書いておきます。
「叶わなかった約束」は、消えたわけではありません。時間がかかっているだけで、実は動いています。
そしてもうひとつ。「見捨てられた」と感じている人のところにも、ちゃんと届いている眼差しがあります。
この2つが、創世記21章の核心です。順を追って見ていきましょう。
創世記21章のあらすじ
創世記21章は、大きく3つの場面で構成されています。
- 1〜7節:イサクの誕生——25年待たされた約束が、ついに実現する
- 8〜21節:ハガルとイシュマエルの追放——喜びの直後に起きた、家族の分裂
- 22〜34節:アブラハムとアビメレクの契約——赤の他人との信頼関係の構築
この3つは、一見バラバラな出来事に見えますが、通して読むと「神の約束の確かさ」という一本の線でつながっています。
25年越しの約束が実現するまで
アブラハムは75歳のとき、神から「あなたを大いなる国民にする」という約束を受けました(創世記12章)。そのとき、彼にはまだ子どもがいませんでした。
それから25年。アブラハムは100歳、妻のサラは90歳になっていました。どう考えても、子どもができる年齢ではありません。
それでも創世記21章1〜7節には、サラが約束の通りに男の子を産んだことが記されています。名前はイサク。「彼は笑う」という意味です。サラ自身が「神は私に笑いを与えてくださった。聞く者はみな、私と一緒に笑ってくれるでしょう」と語る場面が印象的です。
25年という年月、想像してみてください。20代で聞いた約束が、40代後半でようやく実現するようなイメージです。その間、サラは何度も「もう無理だ」と思ったはずです。実際、創世記16章では、サラが待ちきれず、自分の女奴隷ハガルをアブラハムに与えて子どもを持たせようとする場面すらあります。
ここに、ひとつ目のポイントがあります。約束の実現には、人間の感覚とはズレたタイミングがある、ということです。遅いのではなく、「その時」があるということです。
なぜ「遅すぎる」と感じる約束があるのか
「待たされている時間」を「無駄な時間」だと感じるのは、とても自然な感覚です。
でもサラの25年は、何も起きていなかったわけではありません。アブラハムとの関係が試され、信仰が磨かれ、周辺の国々との関わりの中でアブラハムの立場そのものが形作られていきました。そのすべての土台の上に、イサクの誕生があります。
聖書が描くのは、「待たされている時間」の中でも何かが積み上がっているという視点です。
現代日本に重ねると
これは、日本でもよく聞く話だと思います。
たとえば不妊治療。国立社会保障・人口問題研究所の最新の調査(第16回出生動向基本調査・2021年)によると、不妊の検査や治療を受けたことがある夫婦は4.4組に1組にのぼると報告されています。特別な少数派の話ではなく、身近な現実です。
不妊治療を経験した人へのアンケートでは、悩みの中身として「なかなか子どもができない焦り」「パートナーとの関係性」「つらい不妊治療そのもの」「周りからの妊娠報告」の4つがよく挙がると言われています。5年、10年と治療を続けても結果が出ず、心が折れそうになる夫婦は少なくありません。
あるいは、起業。40代、50代になってようやく事業が軌道に乗る経営者は珍しくありません。20代で始めた事業が何年も鳴かず飛ばずで、周りから「もうやめたら」と言われ続けても続けた結果、想定外のタイミングでブレイクする。そういうパターンは、ビジネスの世界でもよく語られます。
共通しているのは、「結果が出ない期間」そのものが無駄だったわけではない、ということです。
家族から追放されたハガルとイシュマエル

ここからが、この章で一番重い部分です。
イサクが生まれ、無事に成長し、乳離れの祝いが開かれます(21章8節)。そのときサラは、ハガルの息子イシュマエルがイサクをからかっているのを見て、こう言います。
“「あの女奴隷とその息子を追い出してください。女奴隷の息子が、私の息子イサクと共に相続人になるはずがありません」(21章9〜10節、要約)”
アブラハムはこれを聞いて非常に苦しみます。イシュマエルも、彼にとっては紛れもない我が子だからです。
それでも最終的に、アブラハムはハガルとイシュマエルに、パンと水の入った皮袋だけを持たせ、送り出します。二人はベエル・シェバの荒野をさまよい、やがて水が尽きます。ハガルは、我が子が死んでいくのを見ていられず、少し離れた場所に座り込んで泣きます。
正直、かなり重い場面です。
そこで神は、少年の声を聞かれた、と21章17節にあります。天の使いがハガルに「怖がらなくてよい。神は、あそこにいる少年の声を聞かれた」と告げ、ハガルの目が開かれ、井戸が見えるようになります。
家族という一番小さな共同体からさえ切り離された人物に、神の意識が向けられている。これが、この場面が伝えている一番大事な部分です。
見捨てられた側への神の眼差し
見捨てられた側にいる、という経験をしたことがある人には、特にこの箇所を届けたいと思います。組織や家族の中心にいられなかったとしても、存在ごと見えなくなるわけではない、という視点がここにはあります。
現代日本に重ねると
現代で言えば、リストラされて、最低限の退職金だけ渡されて放り出されるようなものです。
実際、日本でリストラの対象になりやすいのは40代後半から50代にかけての層だと言われていて、「自分に価値がないのではないか」「自分の存在そのものを否定された」という感覚に陥る人が少なくないと、当事者の声としてもよく語られています。
あるいは、家族の中で「あなたはもう必要ない」と突きつけられる経験。日本でも「窓際族」「肩たたき」という言葉がありますが、組織や家族から静かに切り離されていく痛みは、時代が変わっても本質的には同じです。
創世記21章が描いているのは、追い出したアブラハム側の視点ではなく、追い出されたハガルとイシュマエル側の視点です。見捨てられた立場の人物にこそ、聖書は光を当てています。
アビメレクとの契約に見る信頼関係の再構築
最後、21章22節以降。場面はガラッと変わって、ペリシテ人の王アビメレクとアブラハムの話になります。
アビメレクの家来たちが、アブラハムの井戸を勝手に奪っていたことが発覚します。井戸というのは、荒野で生きるための命綱です。本来なら対立してもおかしくない状況です。
ですがアブラハムは、これを黙って飲み込むのではなく、きちんとアビメレクに指摘します。そのうえでアブラハムは羊と牛をアビメレクに贈り、二人は正式な契約を結びます。この場所が「ベエル・シェバ(誓いの井戸)」と呼ばれるようになった由来です。
黙って我慢するのでも、対立するのでもなく
「一度失った信頼は、もう取り戻せないのか」というのは、ビジネスの現場でもよく聞かれる問いです。
日本のビジネス現場でも、「言わなくてもわかってくれるはず」で済ませた結果、関係がこじれるケースはよくあります。逆に、問題をきちんとテーブルに乗せて、条件を確認し合って契約を結び直した結果、かえって信頼が強まったという例も少なくありません。
アブラハムとアビメレクの関係は、黙って我慢することでも、感情的に対立することでもなく、「事実を確認し、誓いを立てる」というプロセスを経て再構築されています。
まとめ:3つの出来事が指し示す一つのメッセージ
今日見てきた3つの場面、あらためて整理します。
- 25年越しの約束が実現するまでの時間には、意味がありました
- 家族から切り離されたハガルとイシュマエルにも、神の意識はちゃんと届いていました
- 壊れかけた信頼関係も、誠実なプロセスを踏むことで再構築されました
「待たされている」「見捨てられた」「信頼を失った」、どれも人生の中で一度は感じる感覚だと思います。創世記21章は、その一つひとつに対して、「そこで終わりではない」という視点を差し出しています。
動画でも解説しています
この記事の内容は、YouTubeチャンネルでも詳しく解説しています。日本での実例やビジネスの視点も交えながら、約11分でお話ししていますので、あわせてご覧ください。
次回予告
次回は創世記22章、アブラハムが試される最も有名な場面を扱います。更新情報は、公式YouTubeチャンネルの登録・通知設定からお受け取りいただけます。
黒部カリスアガペー教会 田端






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